宮沢賢治 オツベルと象を考察する


マルクス主義小説?

工場労働者としての百姓、工場経営者としてのオツベル。
この関係が山から出てきた白い象によって「権力構造」があぶり出される。

白象は純粋無垢な心を持っていた。「ぶらつと森を出て、ただなにとなく」オツベルの工場へ行き、騙されているとも知らずに働くことの楽しさに酔っている。籾がパチパチ当たるのを「ああ、だめだ」と言いながら笑っていたり、「お筆も紙もありませんよう」と泣いたりするところを見ると、まだ子どもなのだろう。この作品の中心は、子どもが生来の純粋無垢な心を失う、その哀しみにあるのではないか?
 白象が初めてオツベルを嫌う気持ちを見せるのは、第五日曜の章で「時には赤い竜の眼をして、じつとこんなに見おろすやうになつてきた。」とある部分である。ここで白象は初めて純粋な心を失いはじめるのである。
 オツベルを殺したのは、山の象ども。しかし、その象どもを呼んだのは他ならぬ白象。「ぼくはずいぶん眼にあつてゐる、みんなで出て来て助けてくれ。」と手紙を書いて、赤衣の童子にことづてたからこそ、山の象どもは助けに来たのである。つまり、オツベルの死刑を執行したのは象どもであったとしても、その死刑執行を決定したのは(本人にその意志がなかったとはいえ)白象自身だったということになる。象が攻めてくる描写は圧巻。まさに暴力的で「噴火」という表現がユニークだ。噴火するにはマグマが必要で、白い象を苛めながら働かせるオツベルが噴火の予告。また示唆的な文章は「さようなら、サンタマリア」でこれはキリスト教との決別の表現ではないのか?オツベルの資本家が構造的に持つ問題が暴力を呼び込み、より膨張するか、破壊するのか二者択一にあるかのごとく書いている。

 白象が助けに来た象どもに感謝の言葉を述べる場面は、二度ある。一度目は「今助けるから安心しろよ。」という優しい声に「ありがたう。よく来てくれて、ほんとに僕はうれしいよ。」と象小屋の中から応える場面。ニ度目はオツベルが死んで助け出されたあと「ああ、ありがたう。ほんとに僕はたすかつたよ。」と言ってさびしく笑う場面。一度目の言葉は、心からの感謝だろう。だが、ニ度目の言葉はそうではない。「さびしそう」なのである。このさびしさは、助けに来た仲間たちがオツベルを殺してしまったことへの批判ではない。自分自身に向けられたものだ。
 白象は自分の中に赤い眼のあったことを知ってしまったのだ。白象というのはalbinoであるから、その眼はもともと赤いものであった。オツベルの酷い仕打ちに反応して赤くなったわけではない。ただ、白象はこれまで自分の中に「赤い竜の眼」があることを知らずにいた。それが白象の純粋さを保っていたのである。白象は自分の中に人をも殺しうる一面があるということを知り、さびしく笑うのである。
この作品はオツベルを批判するためのものではなく、誰もが「赤い眼」、つまりオツベル性を自分の内に持っているということを知る、その哀しみを扱っているのではないか。白象は自分の中にもオツベルと同じ性質があり、自分もオツベルも結局は他人を踏み付けてしか生きられなかったのだ、ということを悟ったのだ。
 オツベルをただ「冷酷で狡猾な搾取者」として片付ける人は、自分の中のオツベル性から目をそらしているのである。誰もが持っている、そして生きるうえで往々にして必要なオツベル性をただ否定し、忌み嫌うのは妥当ではない。

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