シェークスピア お気に召すままを考察する

こんなあらすじ

兄の扱いに不満を抱いているオーランドは、自分の運を試そうと、公爵の御前で行われるレスリングの試合に出る決意をします。そのレスリングの試合を、追放された父を忘れられず沈んでいたロザリンドが、たまたま見かけ、それが縁でふたりはすぐさま恋に落ちるのです。これから恋が芽生えるというところで、フレデリック公爵に突然、追放を命じられたロザリンドは、現公爵の娘シーリアと道化を連れてアーデンの森へと逃れます。一方、オーランドも、レスリングの勝利をねたむ兄にいのちをねらわれ、アーデンの森に入るのです。
ロザリンドは遊び心から、変装して男の身なりで旅に出て、森に入ってもその姿のままでいます。オーランドは、老いと、旅の疲れで死にそうになった召使いアダムのために、森で暮らす貴族を襲い、食料を奪おうとしますが、公爵にあたたかく迎えられ、いっしょに暮らすことになります。
ロザリンドは、自分の名前を歌い込んだ恋の詩が書かれた紙きれを拾います。シーリアもやはりおなじような恋歌が書かれた紙を拾ってきます。ふたりは、オーランドがこの森にいることを知り、大喜びですが、そこへ当人がやってきたので男装のロザリンドは大あわて。ちょっとすまして、生意気な少年のような調子で語りかけると、すぐに意気投合して、恋愛談義になる。そこで、恋わずらいの治療という口実で、ロザリンドは奇想天外な恋愛ゲームを提案。オーランドに、自分を、恋するロザリンド本人だと思って、口説かせようというのです。オーランドにとっては気楽な恋のゲームだが、ロザリンドにしてみれば、自分を演じる本気の遊び。待ち合わせの約束をすっぽかされ、やるせない気持のところを羊飼いの娘に惚れられて、少し自棄に。一時間遅れでやってきたオーランドに、精一杯すねて見せるものの、すぐに機嫌は戻り、シーリアを牧師にして結婚式のまねごとまでするのです。
しかし、恋の切なさはますます募り、ロザリンドは残酷な気持になって、片想いに苦しむ羊飼いシルヴィアスをからかいます。そこへ突然、血染めのハンカチをもった男が現れ、オーランドが自分をライオンから守ろうとして傷ついたことを知らせると、ロザリンドは失神してしまう。そのとき、シーリアにも一大事件が持ちあがっていたのです。オーランドの怪我を伝えにきた男は、過去の非を悔い改めた兄オリヴァーだった。オリヴァーはシーリアに一目惚れし、結婚を申し込み、明日には式を挙げるという早手回し。
兄の結婚を知ったオーランドは、こころ穏やかではありません。もう恋のゲームはおしまいだと、ロザリンドに告げる。牧歌的な恋の遊戯にも潮時がきたと感じたロザリンドは、魔法使いから教わった不思議な力で、明日、森の恋人たち全員を結婚させてあげると言って、その場を立ち去ります。そして、式に招待された公爵の前に、ロザリンドは変装を解いて現れ、親子の再会を喜び合います。こうして、オーランドはロザリンドと、オリヴァーはシーリアと、シルヴィアスはフィービートと、めでたく結ばれ、ロザリンドのしゃれた幕切れの挨拶で、この劇は終わるのです。

シェイクスピア喜劇とは?

お気に召すままは、シェイクスピアの代表的な喜劇です。まずはここでシェイクスピア喜劇とは何かについて考えましょう。

1,若いカップルが障害を何とかして乗り越える:
      通常、「障害」は劇中の年寄りや主人公の親や保護者が壁として立ちはだかるのです。いろんな事情で離ればなれになる若い二人。そして彼らは何とかして最後には一緒になれる道を探して「ドタバタ」が起きてきます。

2,しょっちゅう起きる勘違い:
     双子で間違えるのか、変装がうまいのか、いずれにしても「人間違え」はシェイクスピア喜劇の定番で彼のお気に入りのパターンです。ジェンダーを扱うのはお得意分野となっています。男装が特に多く、コメディー要素の根幹を成しています。さらにシェイクスピアの時代では男性が女装など「歌舞伎」のようにいろんな役割を演じてもいました。

3,ウィット:
  シェイクスピアのコメディーはその言葉遊びに特徴があります。一つの単語に複数の意味を持たせることで観客に真の意味を推測させていきます。さらにエリザベス時代ならではの言い回し、卑猥なジョークもよく使われます。さすが大衆流行作家として観客の心を捉えていたわけです。そのようなひねりのある物語と言葉の意味が、最後のハッピーエンドへと導くのです。
4,ハッピーエンド:
シェイクスピアのコメディーは「誰も死にません」。今で言う喜劇は「面白さ」重要視されますが、彼の喜劇の定義は誰も死なないと言うものです。死んだと思ったら生き返ったなど、死なないのです。そして大団円を迎え、結婚式を行うなど幸せな終わり方をします。最後に愛は勝つのです。

対立で動く「お気に召すまま」

単純な喜劇と思いきや、やはりシェイクスピア流の仕掛けがたくさんあります。
この作品のキーワードは「対立」です。

アーデンの森と外界

世俗の外界は悪人ばかり、政治的駆け引き、嫉妬、恨みにあふれています。それにひきかえ、アーデンの森はすべてがゆったりしており世俗の喧騒からは別世界、あたかも「エデンの園」のような黄金郷のような状態です。理想郷への憧れが感じられますし、追放された侯爵と追放した侯爵も宮廷と森で対比されています。森の外と内で大きなギャップが作られているのです。

1.悪人VS善人
旧公爵と現公爵、オリヴァーとオーランド、ロザリンドとシーリアなどの対立軸です。
シェイクスピアの時代はちょうど封建制度から資本主義へ移行する転換期でした。この時代のうねりが非常に重要です。

封建主義:家長制よる長兄優位の社会、スムーズな相続と継承が約束されている、昔ながらの騎士道の価値観が生きていた時代。

資本主義:下剋上、賢い人間が勝つ時代、競争の時代で昔ながらの価値観が崩壊する時代。
このように考えると興味深いことがわかります。おっとりとしていて、父親から地位も財産ももらえる坊ちゃんと、知恵を働かせ悪事に手を染めながらものし上がろうとする人たちとの鮮烈な対比が見えてきます。昔堅気と当世流を対立軸とすることでダイナミズムと緊張感をもたらし、話しをグイグイ引っ張って行くのです。

2.身分による区分け(タッチトーンとオードリー、シルヴィアスとフィービー)
さて、皆さんはどの結婚のパターンを選びますか?

①一目惚れしたあと、互いの気持ちを確認したうえで結ばれる。ある意味、王道→ロザリンドとオーランド


②稲妻のような一目惚れしたあと、急激に恋に落ちた。ジェットコースター型→シーリアとオリヴァー


③熱くならず冷めた目で結婚を客観視し、結婚に過度な期待をしない結婚。評論家、割切り型→道化とオードリー


④身分違いの人は諦めて、自分との釣り合いのとれた相手と分をわきまえてする結婚。妥当型→シルヴィアスとフィービー(羊飼い同士)
「男装」という究極の差である「性差」を超える仕掛けを見せたシェイクスピアですが、こと結婚に関しては極めて保守的な落とし所を示しています。こんなお定まりも「アーデンの森」の魔力の成せる技でしょうか?エリザベス時代の観客からすれば、この結論は極めて常識的で妥当、見ていてさぞ安心したでしょう。エリザベス女王はなおさら安堵したと思われます。シェイクスピアも流行作家として、人々、特に体制側の価値観には敏感だったでしょう。そこは世渡り上手の彼なりの妥協点だったのかもしれません。

3.「アーデン森」の役割

これは桃源郷、黄金郷?それにしても不思議な森です。権力闘争に明け暮れる宮廷と対称を成しています。中に入れば皆ニコニコと恋愛に興じます。森には治癒力があるようで、しかも悪人たちが皆、改心してしまいます。でも、冬は厳しい寒さが襲います。ユートピア的でありまた現実的でもある森なのです。実際に森の中にも複雑な関係性があります。お互いがからかい、からかわれ、嘆き悲しむのです。単なる牧歌的なロマンス劇ではないのです。ですから森も宮廷の延長線にあるとも言えるかもしれません。
ところでアーデンの森は実在したのでしょうか?モデルとして考えられる森はベルギーとルクセンブルグの間にありますアルデンヌ高原とも言われています。また英国のウォリックシャー州エイボンの田園とも言われています。シェイクスピアの翻訳家として有名な松岡和子さんが「英国の森は平だ」と指摘しています。これは大変ユニークな指摘です。森というと日本では山のようなイメージで斜面になっています。しかしそれでは牧歌的な生活などはできません。また平らであるから森の中で迷うのです。「平ら」というのは日本にはなかなかない森なのです。だからこそこの物語が書けたとも言えるのです。 

4・タッチストーンとジェイキス
「お気に召すまま」で忘れてはならない人物が二人います。まず一人は道化のタッチストーン。彼は非常に頭が良く、重要な役割を果たしています。これはTouchstone、すなわち試金石であり、一番冷静に見ているのが彼なのです。彼と出会う人は磨かれて、結果的に自分を見つめることになるのです。鏡のような役割を担っています。道化を演じながら真実を見抜こうとしています。確信犯的に堕落していく人物であり、愚を装い、愚になりきり、批判し、かつそれを肯定する。彼の結婚も「お付き合い」でしている感が強いですね。非常に奥が深いキャラクターで、彼のお陰でこの物語が締まるのです。
さて次は厭世家ジェイキスです。ジェイキスとタッチストーンの二人は他の人たちと同じ様に森の中にいて、その森の魔力を信じていないのです。他の登場人物達がアーデンの森の「魔力」に惑わされているのを見物し、ものすごく醒めて批評しているのです。
 ジェイキスの吐く皮肉はブラックで本当に意地が悪いですね。最終幕で万事がめでたく納まり、大団円、旧公爵の流浪生活も終わり、後は復位を待つばかりという時にジェイキスはフレデリックのへ走ろうと言い出す、「あの方の所へ行こう、そのように悔い改めた人にこそ、聞くべき事、学ぶべき事が多々あるもの……」更に「さあ、皆さん、精々お楽しみになるがよい、この私は踊りには向いていないのだ」「浮かれ騒ぎは見たくはありませぬ、何か御用とあらば、お待ち申上げましょう、もう御用の無くなったあの洞窟で」と痛烈な言葉をぶつけます。ハッピーエンドのはずは、一抹の不安を覚えさせるセリフです。また何か起きそうな予感…。

 少し長いですが「お気に召すまま」で最も有名なジェイキスによるセリフ「この世は舞台、男も女もただの役者」を引用します。
 この世はすべて一つの舞台、
 人間は男も女もすべて役者にすぎない。
 それぞれに登場し退場し、
 人生のさまざまな役を演じ、
 舞台は七場に分かれる。まずは赤ん坊、
 乳母に抱かれて泣いたりおっぱい戻したり。
 次は泣き虫小学生、鞄を背負って
 朝日に眩しい顔をして、カタツムリが這うように
 いやいやに学校通い。その次は恋人、
 ふいごみたいに溜息ついて、涙ながらに詩をつくる
 恋焦がれる彼女の眉を讃えて。今度は軍人さん、
 誓いの文句を並べて豹なみに髭生やし、
 名誉欲しさに、猪突猛進、
 あぶく同然の功名求め、
 大砲の口もなんのその。次なる役は裁判官、
 賄賂の鶏肉詰め込んでまんまるまるの太鼓腹、
 眼光鋭く髭厳めしく、
 口にするのはご尤もな格言と月並みな判例ばかり。
 はてさてお役目ご苦労さん。舞台は第6場
 痩せ衰えてスリッパひっかけたパンタローネ爺。
 鼻に眼鏡、腰に巾着袋、
 穿いているのは、オンボロロンの、ダブダブズボン、
 細い脛はヨレヨレヨボヨボ。太く響いた大声も、
 いまや子どもに戻って、キーキー
 ヒューヒュー音を出すばかり。いよいよ大詰めの最終場面、
 この奇妙奇天烈、波乱万丈の一代記の締めくくりは、
 赤子に還って忘れられ、
 歯なく、目なく、味なく、何もない。
                                   2幕7場  
なんと言い得て妙の言葉でしょうか。人生を七幕にたとえて語る言葉には真実味が溢れ、自分のことを言われているようで恐ろしい気すらします。シェイクスピアの人間観が見えてきます。

5.最大の謎:タイトルの読み取りかた
最後にタイトルについて考えてみます。2つの捉え方があると思います。
① As You Like It :「あなた」が自由に読んでください。
「お気に召すまま」のタイトル通り、この話はあなたが好きなように読んでくださいね、という意味。当たり前な読み方ですね。

②As You Like It: この文章は、従属節であり、完結していません。
As you like it は英文法では従属節で、後ろに何か文章が来なくては完結しないのです。ですから正確には、As you like it, で,がつかなくてはいけません。シェイクスピアは、後ろの文章を「あなたが好きなことを書いて完結して」と言っているのかもしれません。だからこそ、ジェイキスに最後の最後に不穏当な発言をさせて不安を煽り、純粋喜劇として終わらせなかったのかも知れません。あなたなら、どんな文章でフィニッシュしますか?

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