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愛する大事さ、AでなくBな歪み、ならぬ解放


人を愛すること、を考えてみます。

ほとんどの人は恋愛的な意味になり、相手を愛してますとは、私を愛して欲しいと同義になります。
憧れの人など推しへの愛があります。対象が芸能人でもイエスでも、それは私がそうなりたい願望の象徴になっています。
心理学でも哲学でも、愛とはなんなのかは、かなり語られましたが、どれも忘れてしまいました。忘れたということは、どれも腑に落ちてなかったということでしょう。

私を愛して欲しい愛も自己愛。
私がそうなりたい願望も自己愛。

しかし、自己愛こそ自己否定になります。
自己を愛するとは、自己を愛せず、自己がそこへ至っていないから愛したいということで、自己は愛するに値してないと宣言するかの様です。
相手を対象にして自己愛に向かったのに、愛が自己へ向かっていないパラドックス。
自己よりも相手を重んじる自己犠牲も、自己を軽んじることで愛に近くて遠い気がします。
自己も軽んじない、他者も軽んじない、
「人を愛する」とは、自己も他者も同等に重んじて価値を認める自他同一視する見方かもしれないですね。


そうじゃない反する状態とは何でしょう。

「愛の反対は憎しみではなく、無関心である」、マザーテレサの言葉で有名ですね。
それっぽく聞こえますが、その言葉に感心する人は権威主義になってないですかね。
マザーテレサは悪い噂は絶えませんが、そんな噂を聞く前の学生の時から、そりゃ寄付金を集めてる側からの、人の罪悪感を刺激した都合のいい言葉だと思っていました。どうせ名もない学生の私が同じこと言えば、何言ってんの?、なんかの宗教?という反応でしょう。

大人のなってから気付く、愛の反対はという発想は、ドイツ哲学の弁証法
AではなくBだ。輪郭を明確にするには有効だが真実と離れます。「美人とは、AさんではなくBさんだ」。差異を作り出しています。

つまり、愛の反対は無いのでしょうか。
憎しみも、先の相手を通した自己愛の歪みです。
無関心も、自己愛の対象にあれかこれかから外れただけに過ぎません。

人を愛することとは、そんなことを考えているうちは愛はなく、対象の相手も自己も、何も判断をしないままの状態を、そのままで在るのかもしれません。
先ほどの自他同一、自他の区切りを無くすこと。
さらに、人と環境の区切りを無くすことと考えられます。
自然への愛、海が綺麗だとか空が美しいとか、どんな荒れた海でも、ケムトレイルの空でも、どんな人でも、そこに判断がなく、存在に愛おしくなるのが、愛するなのでしょうか。
家族愛も自然への愛に近いです。どんな風になってしまっても、そこに判断があれば条件次第や状況次第という俗物さが出てきます。
そもそも聖なるモノが愛なのでしょうか。俗物になったら愛が薄れる、そんなつまらないモノではないでしょう。
聖俗同一視することでしょう。

そこまで区切りがないとすると、愛するという動詞の主語は誰でしょう。
自他同一ならば、主観が無いから主語もない、つまり愛する誰かがいないから愛が存在することになります。

自己と他者がある概念では自己愛の歪みになる。
自他同一で主観がない愛が成立する。

ハートで象徴化する愛は、形はシンプルだけど、構造はパラドックスでありますね。

ここで修正します。
「歪んだ自己愛」と称してしまった恋愛を否定するわけではありません。
恋愛は楽しさです。
人生の不安から逃れるためとか、満たされない自分自身を満たすとか、そうなってしまうと苦しいですが、充実した趣味を満喫するような恋愛は楽しめると思います。
「歪んだ自己愛」を無視するわけでも、開き直るわけでもなく、心の隅にありながら上澄みを社会に合わせればいいのではないかと思います。
いやそんな分析なんかいらないから、心のままに恋愛につかるといいと思います。
ただ「愛」と正当化すると大変です。
まあ大変もドラマですけど。


さらに、いきます。
今までの私たちのイメージ、「神が定めた愛」は完全な罠のような気がします。
そんな戒律のようなガチガチ感、「せねばならぬ!」という厳格感、それらは愛とは真逆かもしれません。
全てを慈しまねばならぬ!、親は子に100%の愛でなければならぬ!、パートナーには純愛でなければならぬ!、会う人を全て愛で受け入れなければならぬ!、全部私たちの思い込みな気がしてきました。
「ならぬ!」から解放された時、初めて自分を尊重できるようになり、そうなれば相手を尊重できるようになるのでしょう。
それが、自他同一になることになる気がします。
すると、360度の全方位に尊重できる「愛」かもしれません。


長々と話がアッチコッチ行きましたが、高次元から沁みてきた現時点での私の感覚です。



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