見出し画像

高次元は殺さない活人剣の覗き穴

まさに次元の違いとは視点の違いだと感じさせてくれた記事です。

セス君は、具体的な人間生活の中にある口から体内に入る原因を教えてくれてます。
アシュタールさんは、「症状を問題視しないでください」と、症状に対する質問から、症状という概念まで問い返されて教えてくれます。

どちらも、症状に対する解決策ではないです。
私たちは対症療法の概念をずっと思い込まされてきたので、問題に対して同じ次元の解決策を考えてしまいます。
症状には薬、問題には対応術など。
しかし次元が上がれば、その問題に対する原因を考える視点になり、さらに原因の原因の原因と視点が上がっていきます。

近視的な原因から巨視的な原因まで、原因は宇宙規模に存在するのでしょう。
これによって、質問する側の答えに対する反応が問われている気がします。
答えの受け止めも次元を上げて理解したいものです。


話が変わるようで変わりません。
私はある時、日本武道から中国拳法までさまざまに調べた時があります。
人を殺める手段の剣法なのに、流派を越えていくと行き着く先は「活人剣」などと言います。
人を活かす斬り方?、すごい視点です。
症状の問題視が問題?、すごい視点です。
微に入り細に入り繊細な追求の先が、漠然とした雲を掴む達人観に行き着きます。

「あなたの苦しみから逃れるには、苦しみから逃げないことです」
「あなたが悩むのは、悩むあなたがいるからです」
役に立つのか役に立たないのかわからないですが、達人の領域のようなこの種の答えは個人的に好きです。

日本武術の達人の話は面白いです。
北辰一刀流は「理より入るは上達早し、技より入るは上達遅し」です。原因の原因を探ります。
宮本武蔵の『五輪書』は、反作用のない正中線など、技術的な具体性でありながら解剖学の視点から副交換神経な視点を超えて哲学まで昇華します。


中国憲法は、より具体的から巨視的抽象論まで広大です。
勁(けい) の扱いは抽象的なようで具体的です。

心意六合拳は、心と意と気と手と足と肘と膝など、抽象と具体を組み合わせてます。

八卦掌は、歩き方一歩一歩からこだわり、手の動きに一つ一つ名前をつけるほど分類し、具体化を先の先まで先鋭化して統合します。

行き着く究極は、太極拳のスワイショウです。
手を振って体を回す、単なる健康ラジオ体操のようです。
逆の力の作用が働く矛盾による統一運動で陰陽・虚実を体現するのです。
数分やれば血流を良くし体をほぐす健康体操ですが、達人はこの単純な動きを数時間やります。
それでほんとに武術的な達人にも人格的な達人にもなれるかどうか、やったことないのでわかりませんが、そう思わせてくれる何かがあります。

もはや武術の極みは地球との一体化などの答えでしょう。
巨視的な視点で本質を解くアシュタールさんには、達人の門徒のような心構えで在りたいです。
達人の師匠の話を聞いて、「それじゃあ武術が強くならないんですけど」などと即物的な発想だと、不満になります。
手っ取り早いのは武器屋に行って、殺しやすい卑怯な武器を物色すればいいのですが、本来の目的を見失うことにもなります。

ここまで言ったついでに、私なりの現在の帰結として、アスリートの動きの本質は、重力を利用した自己の張力だと考えます。関節毎の小さなテコの原理を連鎖させた重心反応です。
この巨視的なコンセプトで、個別の近視的な技術を具体的に高めていくと考えます。

身体操作の話になると無限に長くなってしまうのでやめます。
つまり、近視から巨視まで、具体から抽象まで、広く網羅することでわかっていくと感じるのです。
1つの視点から見ただけで分かんないというのは早計なのでしょう。1つの覗き穴だけでは全体像が見えないのです。
達人には、つまり覚醒するとは、一瞬とも悠久とも言えるのでしょう。
いや達人も覚醒も、もはやいらないのでしょうけど。

こんな面倒臭い中国拳法まで引き合いに出す私は、子供の頃のジャッキーチェンの映画に影響されただけでしょうね。
「JCが好き」とは、ジャッキーチェン好きであり、女子中学生好きとは限りません。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?