【後編】ボカロ文化と批評のあり方(についてのいくつかの所感)

前編


自己批判とWikipediaについて

散々人にケチをつけておいて、お前はどうなんだと思うかもしれません。実際、私も過去にかなりのミスを犯しています。例えば、先述したドラムンベースについての言及。私も同じことをしています。私がReal Soundで連載していた「ボカロ曲の流行の変遷と「ボカロっぽさ」についての考察」から、じんについての文章を見てみましょう。

じんは2011年2月17日投稿の「人造エネミー」でボカロPとしての活動を始める。この楽曲も2作目の「メカクシコード」も共にドラムンベースであった(中略)が、同年9月30日投稿の3作目「カゲロウデイズ」でロックに方向転換、ブレイクを果たす。

Flat「ボカロ曲の流行の変遷と「ボカロっぽさ」についての考察(3)kemuとトーマ、じんが後続に与えた影響」(Real Sound, 2020)https://realsound.jp/2020/09/post-613822_2.html

じん - メカクシコード(2011)

うーん。確かにビートのパターンはドラムンベースですが、かなりギターも入っているし、ベースは控えめでキャッチーな歌が目立つ。ドラムンベースの一言で片づけるのは難しいですね。解釈によってはダンスミュージックとロックの両要素を取り入れたビッグ・ビートなどのジャンルに通じるムードはあるかもしれませんが、それでも既存の音楽ジャンルひとつで言い表すのは無理があるように思います。今簡潔に書き直すとすれば「ドラムンベースのビートを取り入れたポップス/ロック」といったところでしょうか。「人造エネミー」はもう少し電子音楽寄りではありますが、それでも純度100%のドラムンベースとは言えないと思います。

また、kemuやトーマと比較した「後続へ与えた音楽的な影響を見ても、YASUHIRO(康寛)などを筆頭にポップソングを得意とするフォロワーが多い印象を受ける」という文も主張が先行し過ぎているように思います。そもそも「音楽的な影響」というものだけでも感覚的な類推になりがちなのに、そこに「ポップソングを得意とするフォロワーが多い印象」という個人の匙加減でどうにでもなるような書き方を重ねてしまっている*1。kemuやトーマと比べてじんの音楽には過剰性があまりないという考えは今でも変わりませんが、この記事はその根拠が貧弱でこじつけているように見えてしまいます。

もうひとつ。今度はバルーンについての文章です。

ダンスロックという意味ではナユタン星人と同じ分類ができるが、ビートに着目してみると「シャルル」はソカ的だし、「花瓶に触れた」では全体を通して2-3ソン・クラーべが鳴っている。ナユタン星人が(隔世遺伝的な)ディスコ由来のダンスロックであるのに対して、バルーンはさらにラテンミュージックの要素を加えたダンスロックであると言える。これはバルーン本人も示している通り、ルーツだというポルノグラフィティの影響もあるだろう(ちなみに、同時代のソカ的なビートを用いたヒット曲としてはLuis Fonsi「Despacito ft. Daddy Yankee」(2017年)や、[Alexandros]「ワタリドリ」(2015年)などが挙げられる)

Flat「ボカロ曲の流行の変遷と「ボカロっぽさ」についての考察(5)ナユタン星人、バルーン、ぬゆり、有機酸ら新たな音楽性の台頭」(Real Sound, 2020)https://realsound.jp/2020/10/post-630267.html

注目すべきは「同時代のソカ的なビートを用いたヒット曲としてはLuis Fonsi「Despacito ft. Daddy Yankee」(2017年)」の部分。確かに「シャルル」とはパターンこそ同じではあるものの、BPMやビートの音色が大きく違います。この曲はソカではなくレゲトンに分類されます。当時、一応はこの違いを考慮して「ソカ的」という表現を用いた記憶があるのですが、そんなことは伝わるわけがありません。何かについて書くのであればできる限り詳しく調べ、誤解が生まれないように言葉を尽くして説明した方がいいです。

Luis Fonsi - Despacito ft. Daddy Yankee(2017)

また、この連載は歴史観(というより、歴史に対する態度?)にも問題があるように思います。代表的な例を見てみましょう。

しかし、ぬゆり、有機酸以降は、はるまきごはん、春野、歩く人、大沼パセリといったボカロPたちが次々とヒットし、ボカロヒットチャートに新たな風が持ち込まれたのだ。これも2014年頃のOrangestarやGigaなどによる非ロック的な感覚があってのものではないだろうか。

Flat「ボカロ曲の流行の変遷と「ボカロっぽさ」についての考察(5)ナユタン星人、バルーン、ぬゆり、有機酸ら新たな音楽性の台頭」(Real Sound, 2020)https://realsound.jp/2020/10/post-630267_2.html

また、kemuとトーマのフォロワーとして名前を挙げたOmoiの「テオ」(2017年)、ユリイ・カノンの「だれかの心臓になれたなら」(2018年)が該当する点も興味深い。

Flat「ボカロ曲の流行の変遷と「ボカロっぽさ」についての考察(4)n-bunaとOrangestarの登場がもたらした新たな感覚」(Real Sound, 2020)https://realsound.jp/2020/09/post-613823_2.html

一つ目の例では、ボカロのヒット曲における作風の特徴を抜き出し、そうした楽曲がヒットする文化的な土壌は先人のヒット曲によって形成されたのではないかと述べています。二つ目の例では、視点によっては類似性を見出せる作家たちを、時系列に従って「フォロイー-フォロワー」という影響関係に持ち込んでいます。これらは非常に短絡的で、わかりやすい物語を描こうという恣意性が潜んでいるように見えます。

この連載は全体的に、直線的・単線的でナイーブな進歩史観的視点に立脚していると言わざるを得ないでしょう。当時の私は人々の言う「ボカロっぽさ」というものに関心があったのですが、こうした感覚に至る背景や思考は人それぞれであり、あまりにも茫漠としています。この観念や、それを感じた人たちの意見を一律に生真面目に取り扱い、音楽的・系譜的に紐解くことは雲をつかむような話であり、わざわざ商業媒体の連載のテーマとして掲げるものではなかったなと今では思っています*a。はっきりとした答えの出ない問いに取り組むのはいいですが、無理やり答えを出してわかった気になってはいけません。

そして、この私の連載を大半のソースとしたものが「ボカロ (音楽ジャンル)」というWikipediaのページです。

このページはタイトルの通り、「ボカロ」という括りを「音楽ジャンルの一つ」として扱っています。また「歴史」の節の多くは、私の連載をなぞる形で記述されています。つまりこのWikipediaが正しければ、ボカロという音楽ジャンルの大部分の歴史は、supercell、wowaka、じん、Orangestar、ぬゆり、かいりきベア、Kanariaなどの作家の楽曲で構成されているということになります。本当にそんなことがあり得るでしょうか?

強調しておきたいのは、私の連載は「ボカロシーンの音楽的な流行の変遷」を取り扱ったものだということです。音楽における「流行(の音楽性)」とは、シーン全体のなかのごく一部のメインストリームのなかの、更に一部のアイコニックな音楽性です。この連載は元から「ボカロの歴史」を取り扱おうとはしていないのです。特定の曲や傾向を説明するときは、なるべく「ヒット曲」「ヒットチャート」「メインストリーム」という言葉を使っていますし、最終回では「これまで概観してきたものはボカロシーンのごく一部であることは強く主張しておきたい」とも書いています。

また、この連載には先に自己批判したような短絡的な論理も多くありますが、一方では「この曲のヒットという現象は、こういう音楽性の流行と同時代的・連続的な現象」というような言い回しをすることによって単線的な影響関係からなるべく逃れている部分もあります。このWikipediaでは、そうした部分までもが影響関係に落とし込まれています。少し比較してみましょう。まずはWikipediaです(いずれも2024年1月28日 (日) 12:28に更新された版を参照)。

他にも椎名もたの楽曲『ストロボラスト』はJust the Two of Us進行とリリースカットピアノを共に用いるという新たな音楽ジャンルを切り開いた。「リリースカットピアノ」は、2012年に投稿されたlumoの楽曲『逃避ケア』、2013年に投稿された150Pの楽曲『孤独ノ隠レンボ』、2013年にスズム名義で投稿された楽曲『世界寿命と最後の一日』、2014年に投稿されたまふまふの楽曲『戯曲とデフォルメ都市』などにみられ、2016年以降のボーカロイド曲にも影響を与えた。

Wikipedia「ボカロ (音楽ジャンル)」(2024年2月7日閲覧)https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%83%9C%E3%82%AB%E3%83%AD_(%E9%9F%B3%E6%A5%BD%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%AB)&oldid=99031619

煮ル果実とsyudouに代表されるトラップとヒップホップの流れは、ハチの楽曲『砂の惑星』の系譜を組んだものとなっている。

同上

Real Soundでの研究では、ボーカロイド曲は邦楽よりもサビの転調の割合が高いとしている。

同上

次に、これらの引用元です。

リリースカットピアノにも触れておこう。これは決してこの時期に突然現れた要素ではない。これまで当連載に名前が登場した(中略)ボカロPも用いており、ボカロ曲の歴史の中に遍在することがわかる。その中でもスズム「世界寿命と最後の一日」(2013年)、lumo「逃避ケア」(2012年)、150P「孤独ノ隠レンボ」(2012年)、まふまふ「戯曲とデフォルメ都市」(2014年)などに見られる音価を短くし、少し隙間を空けて刻むように鳴らす用法は2016年以降によく見られる用法と近い。
(中略)
また、2011年1月20日投稿の椎名もた「ストロボラスト」はJust the Two of Us進行とリリースカットピアノの両方を用いた最初の大ヒットボカロ曲だろう。エレクトロニックミュージックのヒット曲という意味でも、2016年以降のボカロ曲への影響力、あるいはそれらがヒットすることが可能な土壌の形成への寄与などは無視できないものであるように思える。

Flat「ボカロ曲の流行の変遷と「ボカロっぽさ」についての考察(5)ナユタン星人、バルーン、ぬゆり、有機酸ら新たな音楽性の台頭」(Real Sound, 2020)https://realsound.jp/2020/10/post-630267_2.html

syudouと煮ル果実はトラップ/ヒップホップという同じムードを共有してほぼ同時期にヒットしているが、「ビターチョコデコレーション」や「ヲズワルド」以前にトラップを取り入れた大ヒット曲としてはハチ「砂の惑星」(2017年)がある。この楽曲の反響は(良くも悪くも)非常に大きく、ニコニコ動画に投稿されたボカロ曲としては史上最速でミリオン再生を記録。あえてボカロヒットチャートだけを見れば、この楽曲がsyudouや煮ル果実のヒットという現象を可能にしたと考えることも可能だろう。

Flat「ボカロ曲の流行の変遷と「ボカロっぽさ」についての考察(6)syudouと煮ル果実の功績、YouTube発ヒット曲の定着」(Real Sound, 2020)https://realsound.jp/2020/10/post-630279.html

「サビでの転調」は「ボカロっぽい」要素として挙げられることも多く、そのイメージはこの3曲によって決定付けられたと言っても過言ではないだろう。では本当に「サビでの転調」が「ボカロっぽい」のか、2008~2019年の12年分の邦楽とボカロ曲のヒットチャートで比較してみよう。
(中略)
調べた結果としては60曲中サビで転調をするのは邦楽では8曲、ボカロ曲では20曲であった。同年代の邦楽ヒット曲と比較した限りでは(相対的に)「サビでの転調」が「ボカロっぽい」ことは確かなようだ。ここで把握してほしいのは、決して「サビでの転調」がボカロ曲固有の要素だと言っているわけではないという点だ。他所で生まれた要素だとしても、多数の楽曲に取り入れられ、フォロワーが生まれることでその文化圏の顕著な特徴になり得る。その意味で、ボカロPが影響を受けたこれより上の世代の音楽ではなく、同時代の音楽と比較するのも妥当だと思われる。

Flat「ボカロ曲の流行の変遷と「ボカロっぽさ」についての考察(2)シーンを席巻したwowakaとハチ」(Real Sound, 2020)https://realsound.jp/2020/08/post-599468.html

やはり粗は目立ちますし物語化しすぎていますが、スタンスの違いはわかるかと思います。一つ目と二つ目の例は、私が(少なくとも作家の)影響関係を断定することを避けたにもかかわらず、Wikipediaではわかりやすい関係に落とし込まれています。三つ目の例では、私は「12年分の邦楽とボカロ曲のヒットチャート」を比較したにも関わらず、Wikipediaでは「ボーカロイド曲は邦楽よりもサビの転調の割合が高い」とされています。また、私は「Just the Two of Us進行とリリースカットピアノの両方を用いた」ものが「新たな音楽ジャンル」のひとつであるとは断じて言っていません。

Wikipediaは基本的にいつでも誰でも編集が可能なので、本来であればわざわざ批判せずに自分で書き換えればいいのかもしれません。しかし、このページは根本からして私の考えとは異なります。「ボカロ」をひとつの音楽ジャンルとして取り扱った設計のため、どう修正しても間に合わせに過ぎないのです。加えて、このページは「度重なる荒らし行為のため」半保護状態になっているようです。

シンガーソングライターとしてのボカロP

こうしたWikipediaが作成される要因のひとつは、文献の少なさでしょう。ボカロ文化には少なくとも16年以上の歴史がありますが、未だに公の場での言論は非常に少ないです。ありがたいことに、最近では私がそうした貴重な機会をいただくこともあります。例えば、『ユリイカ』長谷川白紙特集号。私は「混沌と速度、落差と歌――長谷川白紙といくつかのボカロ曲について」という論考を寄稿したのですが、他の方が執筆した論考にもボカロ関連の話題が見受けられました。

難波優輝氏の「長谷川白紙と多受肉するペルソナたち――声と身体をめぐる新たな表現ジャンル「多受肉する歌い手」の誕生――ARuFa、月ノ美兎、ヨルシカ、ずっと真夜中でいいのに。、Ado、いよわ――について」は、歌い手(Singer)を構成する要素をパーソン、ペルソナ、キャラクタの3つに整理します。いわく、パーソンは「その人そのものを意味」し、「目に見えず、触れることもできない、魂(Seele)である」。ペルソナは、その「パーソンの現れ」であり、「ある人を何らかの仕方で表出しているとみなされるすべて」――例えば「声、歌詞、メロディ、投稿、写真、動画、プロフィールイラスト、アバター、ステージパフォーマンスの姿、そして、身体」――だと言います。残るキャラクタは「虚構的なパーソン」、つまり「この現実には場所を占めていない魂」であり、「私たちは、キャラクタのペルソナを通じて彼らにアクセスする」。そして歌い手は「歌詞の中のキャラクタのペルソナと、パーソンのペルソナ(とりわけ声と身体)が、一致しあるいは残余を生み出し、その総体を響き合わせる現象である」(p.144-145)とまとめます。

難波氏はこの議論を下敷きに、長谷川白紙をはじめとしたいくつかの現代の歌い手たちが「多受肉するペルソナの表現を行っている」(p.146-147)とします。その一例として提示されるいよわについての議論を見てみましょう*2。

ボカロP(プロデューサー)のいよわにおいて、以上のペルソナとは異なり、パーソンのペルソナと作品内のペルソナははっきりと切り離されている。なぜならいよわはプロデューサーなのだから。そもそもボーカロイドという歌い手は、自身のキャラクタの設定をほとんどもたない特異な存在である。そのため、歌ごとの歌詞の中のキャラクタ/ペルソナに自由に憑依する。

難波優輝「長谷川白紙と多受肉するペルソナたち――声と身体をめぐる新たな表現ジャンル「多受肉する歌い手」の誕生――ARuFa、月ノ美兎、ヨルシカ、ずっと真夜中でいいのに。、Ado、いよわ――について」『ユリイカ2023年12月号 特集=長谷川白紙 -幻と混沌の音世界へ-』(青土社, 2023)p.148

ボーカロイドが「自身のキャラクタの設定をほとんどもた」ず、「歌ごとの歌詞の中のキャラクタ/ペルソナに自由に憑依する」存在であることには同意します。一方で、「ボカロP(プロデューサー)のいよわ」「プロデューサーなのだから」「パーソンのペルソナと作品内のペルソナははっきりと切り離されている」という因果関係には疑問があります。確かに、いよわの作品には声や身体といったパーソンのペルソナは表面上見受けられませんし、歌詞についても虚構的なパーソン=キャラクタのペルソナの存在感が非常に強い内容だと思います。しかし、それはいよわがボカロPだからではなく、そういう作家性の持ち主だからです。

また、同じく私が「拡大する「ボカロ」とそのゆくえ」という論考を寄稿した同人誌『ボーカロイド文化の現在地』にも気になる箇所がありました。ペシミ氏は「なぜVTuberの「歌ってみた」にはボカロ曲が多いのか?」のなかで次のように述べています。

なぜギャップ型とブースト型を調和する「歌」の中でもボカロが最適なのか。それは、ボーカロイドには文脈がなく(もしくは希薄であり)、VTuber自身のライフストーリーに組み込みやすいからだ。例えば筆者はボカロ以外にもRADWIMPSのファンだが、彼らの曲を解釈する際には作詞を担当している野田洋次郎の人生を鑑みる必要がある。(中略)その点、ボカロにはそのような特徴が薄く、作曲作詞であるボカロPとシンガーであるボーカロイドが常に分離される(後略)

ペシミ「なぜVTuberの「歌ってみた」にはボカロ曲が多いのか?」『ボーカロイド文化の現在地』(Async Voice, 2023)p.126

両者に共通するのは、ボカロPは自身の作品にパーソンのペルソナたる表現をほとんど取り入れず、歌い手/シンガーたるボーカロイドや、歌詞中のキャラクタのペルソナとは分離された存在だとする見方でしょう。本当にそうでしょうか? すべてのボカロPやボカロ曲がそうだと言えるでしょうか?

大丈夫P - おれの闘病日記(2016)

すみません、流石に極端すぎました(でもこれもボカロ曲ですから)。気を取り直して、この曲はどうでしょうか。

瀬名航 - aimai(2015)

または、この曲はどうでしょう。

ヒッキーP - レインコート/憧憬/嫌悪/理解(2010)

少なくとも、「パーソンのペルソナと作品内のペルソナははっきりと切り離されている」と断言できないような作品が存在することはわかってもらえるでしょうか。もちろん、この歌詞が作者(=瀬名航やヒッキーP)の表出だとは限りません。ですが、それは非ボカロ曲にも同じくらい言えることではないでしょうか? 歌詞が作者の反映(パーソンのペルソナ)とは限らないし、反映でないとも限らない。また、それらは二元論的ではなく、どちらの状態も重なり合っている場合がある。ポピュラー音楽にはフィクション性がつきまとう。

確かに、ボカロPには自身とボーカロイドや歌詞を切り離したプロデューサータイプもいます。一方で、自身とボーカロイドや歌詞を重ね合わせたシンガーソングライタータイプも少なくないのです。いくつかインタビューを引用しましょう。

(引用者注 ryo:)自分は自分の声で歌う人、自分の言葉で発信する人が一番好きなんですよ。そういう意味では、自分にとってのVocaloidって自らがそうなれる装置なんです。自分が歌っても絶対誰も聴いてくれないんですけど、自分の言葉とメロディラインで、ボカロに自分のクセとか歌い方を全部反映させて歌ってもらうと、みんな聴いてくれて歌ってくれる。

柴那典「ハチ(米津玄師)×ryo(supercell)対談 2人の目に映るボカロシーンの過去と未来」(音楽ナタリー, 2017)https://natalie.mu/music/pp/hachi_ryo

(引用者注 瀬名航:)僕が初音ミクに歌わせるときって、自分で歌うのとほぼ同義なんです。シンガーソングライターだけど、僕の声が初音ミクの声になっているだけです。

しま「インタビュー 瀬名航――ボーカロイドも人も」『ボーカロイド音楽の世界2018』(Stripeless, 2019) p.6

(引用者注 和田たけあき:)初音ミクが歌う曲を作るのをアイドルのプロデューサーに例えて“P”と呼ぶようになったけど、みんなが実際にやってることはアイドルのプロデューサーよりもシンガーソングライターに近いと思います。

橋本尚平, 倉嶌孝彦「和田たけあき(くらげP)が考えるボカロ衰退論の真相「むしろ2012年の状態が異常だった」」(音楽ナタリー, 2017)https://natalie.mu/music/pp/wadatakeaki/page/3

少なくないボカロPがシンガーソングライター的な行為を実践しているとすれば、難波氏やペシミ氏の議論とは矛盾が生じます。自身で作詞作曲する歌い手とボカロPとの違いは、歌声が「パーソンの身体から発せられた声」であるかどうかの違いでしかなく、見方によってはボーカロイドの歌声を「パーソンのペルソナ(の分身・拡張)」と捉えることも可能でしょう*3。その場合、なぜ他のアーティストの作品にはあるパーソンのペルソナが、ボカロPには認められないのでしょうか? ボカロ曲には非ボカロ曲と同じくらい文脈があり、非ボカロ曲にはボカロ曲と同じくらい文脈がない。私はそう思っています。

批判的視点の不在

ここまで、既存のボカロ批評に対して批判的に言及してきました。ボカロ文化と批評のあり方について、現状は「批判的視点の不在」と言えるかと思います。もちろん、(特にコミュニティの内部にいる場合)個人・同人規模の言論を批判することは気が引けるという考えも理解できます。ただ先に述べたように、ボカロ文化は商業的または学術的な批評や研究に晒されることの少ない文化です。我々や後世の人たちにとって参照できる主な資料は、現状では個人レベルの言論・批評でしょう。その場合、誤りや誤謬が指摘されないままでは、不健全な未来を招いてしまうかもしれません。また、商業的・学術的なものについても同様に、誤った認識の批評が引用され続け、流布してしまうかもしれません。

決して無暗に批判をしろと言っているのではありませんし、完璧に仕上げられないのならば書くなと言っているのでもありません。私が言いたいのは、なるべく調べ、考えて書くべきだということ、そして一方では、もっと多くの人が発信してもいいのではないかということです。それは批評でも批判(的批評)でも変わりません*b。

また、個人・同人規模のものを批判することの難しさは、ボカロ曲についても同様でしょう。商業的に流通した作品を批判することは一定の理解が得られるかもしれませんが、個人が趣味で発表した作品をあえて取り上げて批判することは相応の理由がなければ難しいのが正直なところです。音楽作品には明確な誤りやそこに潜む危険性なども(ほとんど)ないため、批評と違いもっと批判すべきだとは簡単に言えません。ただ、一切の批判的(と取ることのできる)要素を含む言及を許さないという姿勢は、閉塞感に繋がるように思います。例えば聴き手のなかには、ある作品に対して既存の作品に似ていると述べることは悪いことだと考えている人もいるようです*4。これは盗作やオリジナリティの欠如などを連想させるからだと思いますが、こうした指摘を排除することは創作にとってはむしろ不健全ではないでしょうか。作品はゼロから生み出されるのではなく、また別の作品との関係のなかに生み出されますし、さらに言えばオリジナリティなるものを過剰に重視することは、アマチュアによる創作という行為自体の尊さを霞ませる行為だ――とするのはラディカルすぎるでしょうか。

だらだらと書いてしまいましたが、現状のボカロ文化と批評のあり方について、私が考えていることが少しでも伝われば幸いです。この文化や、それにまつわる言論が益々発展することを願っています。もちろん、この記事への批判も歓迎します。

脚注

*1 YASUHIROに限って言えば、度々ファンを公言しています。例えばこのツイートなど。

*2 また難波氏は、ヨルシカとずっと真夜中でいいのに。について「パーソンのペルソナを表に出すことなく」「ほとんどMVと楽曲のみを介したペルソナ(イメージ)の制作を行う」(p.148)と述べています。私は彼らの活動をあまり追えていないので厳密な反論はできませんが、ずとまよのACAねは頻繁にSNSを更新しています。

*3 yuigotは、いよわと共作した曲について次のように述べています。

自分はボーカロイドの調声というものを歌唱法の一つだと捉えていて、その上でボーカロイドならではの言葉のスピード感を自在に扱えるシンガーとしていよわさんをフィーチャーしました。

yuigot「Guidebook’s guidebook」(2023)https://note.com/yuigot/n/n876b24e4b868

*4 例として、ニコニコ代表の栗田穣崇氏のこのツイートや、それに対する反応など。

*a 言葉足らずでしたが、この連載における「流行の変遷」に相当する部分には一定の意義があったと思っています。私がここで問題にしているのは、もう一方のテーマである「ボカロっぽさ」と、それに囚われて短絡的な論理を持ち出したことです。(2024/02/10追記)

*b また、読み手側の意識も大切です。鵜呑みにはせずに、まずは疑いながら読むべきです。(2024/02/10追記)

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