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#7_依存する自分


「依存」はネガティブな言葉?


「依存」と聞くと、真っ先に思い浮かべるものがあります。

薬物、酒、タバコ。

これらに、依存してはいけない。

「依存してる奴は、精神的に弱くてどうしようもないやつだ。」

「依存してる奴は、社会的にはお荷物で、価値がない。」

「私は薬物も、酒も、タバコもやらない。」

「だから、私は精神的にも強い。」

そう思っている人は多いはずです。

人は、全てのものに依存している


薬物、酒、タバコ以外にも、人は依存して生きている。

水、食事、他人、生物、もの、全てに依存しています。

極端に考えると

空気にも依存していますし

自分(肉体)にも依存しています。

この文章を書くために、何に依存しているのか?

「パソコン」
「キーボード」
「電気」

もっというと
「自分の指」
「目」
「体」

数えればきりがないです。

よくよく考えると

「私は、何にも依存していないから、強いやつだ」

とは、言えません。

薬物、酒、タバコ、に依存していないだけ で

他の依存物には、気がついていない。

それは

「当たり前」だから です。

つまり

人は、当たり前のことを忘れてしまい

頭では「何にも依存していない」

そう思って生きているということです。

「僕の頭で右手の小指を動かしたい」

と思い浮かべることで

実際に指でキーを押すことができるのは、どうしてなのか?

脳が「思うことで電気信号が体を動かす」と聞いたことがありますが

なぜ、そういう仕様になっているのか?

全くわからない。

僕は、自分の脳や心臓を動かしている。

という自覚はない。

けど、動いている。

なぜなのか?

・・・。

・・・。

わかりません。

それは


自分が自分の肉体に依存している(おまかせしている)


ということだと思います。

さらに言うと

「自分」という「肉体」と

「自分」という「意識」は

「別々」ということではないでしょうか?

自分の体の中にあるもの全ては

「明確に自分でコントロールしている」ところは少ないです。

小指でエンターキーを押すことですら

「自分でコントロールしているつもり」であって

本当のところは、どうなっているのか。

そもそも、本当に僕が動かしているのか?

確証はありません。

「意識」がぼんやりした「司令」を出し

後は、「肉体」におまかせしている

ということです。

僕の場合

意識して動かすより、無意識で動いている方が圧倒的に多かったです。


人は、自分の「意志」で動いていない?


みなさんは、100%自分の意志で動いていると言えますか?

僕には、言えませんでした。

残念ながら

自分の意志で、体を100%動かせている感覚もありませんでした。

その時々で、動かしている気になることはありましたが

一日の中で、無意識の動きをしていたことの方が圧倒的に多かったです。

例えば、スマホを失くしたとします。

100%自分の意志で、常に動いている人がいたら

失くすはずがありませんよね。

最後にスマホを持っていたときの記憶も明確にあるはずなので

どこかへいってしまう(おいてきてしまった)なんてないはずです。

ないはずなのに、スマホが失くなった。

自分の意志で動いていない時がある

ということの一例です。

これは屁理屈ではなく、心当たりがある人は僕と同様で

・自分の意思で体を動かしていない
・自分の意思で生きていない

ということなんだと思います。


人は、一人称で生きていない


僕の中にいる

・レベル100だと思っていた自分

・怖いからできるフリしていた自分

・レベル0だと気がついた自分

みんな「自分」と呼ぶけど、それぞれ違う「自分」です。

人は一人称で生きていますが

一人で生きているわけではないのです。

一人だと思っていた「自分」が「複数いる」

一般的には「多重人格」と呼びますが

色々な自分が、その時々で入れ替わり、自分の体を操っている。

そう考えると、失くさないはずのスマホが、失くなってしまうことも説明がつくと思います。

「やったはずの仕事がやっていなかった」

「毎日、同じ間違いをしている」

「昨日はできていたのに、今日はスランプだ」

これらの説明がつきます。

同じことを言われているのに

「今日はなぜか頭にくる」

「嬉しくなる」

そんな理由も説明がつきます。

私たちは普段、一人称で世界を見ていて「自分は一人だ」と思って生きている。

これが大きな勘違いです。

「自分は複数いて、その時々で入れ替わっている」

これが、僕の最も納得する考え方です。


本体はレベル0


何度も書きますが、僕はレベル0です。

レベル0の僕が、どうしてこれまで形なりに色々できたのか?

「自分って複数いる」とすると

知らない間にスマホをどこかにおいたのは誰だ?という疑問がわいてきます。

意識の中の「自分」以外の誰か。

やり方がわからないことでも

「なぜかできた」

そう経験した人もいると思います。

これは、他の誰かのやり方を借りていた。

ということになります。

「自分」の中にいる「複数の自分」の誰かができること。

それは、僕が思っている「自分」ではないです。

なぜなら

「できた」けど、やり方は「わからない」からです。

ここに大きなズレがありますよね。


「できる」と「できる風」は全く違う


できる:できる、やり方もわかる

できる風:できる、やり方はわからない

うまくいったことを、再びやろうとしてもうまくいかないことがありますよね。

それはできた風であり、「他の誰かのやり方を使っていた」 という答えになります。(自分の中にある誰かの力を借りていた)

ちょっとなにを言っているかわからない人もいるかと思いますが、、、

僕はその説明に納得しています。

例えば、「歩く」にはどうすればいいのでしょうか?

(1) 足を交互に前に出す

(2) その繰り返し

実際にやってみると

毎回「なんとなく」動かしていたことに気がつきます。

意識すると、急にぎこちなくなるやつです。

初歩的な「歩き方」ですら、自分の体を意識してやっていなかった。

僕の意思で歩いていなかった。

「無意識」だった。

「できる」と思い込んでいた「できる風」だったということ。

僕とは違い、頭でイメージした通り体を動かすことができる人もいる。

これまでの僕にはできなかったことでした。

これが「できる」と「できた風」の大きな違い。

歩き方だけではなく

他のことにも当てはまります。

「自分」の中にいる「複数の自分」の力を借りていますが

「自分の力だけで生きている」と思い込んでいるところです。

できるフリをしようとするあまり

「できる風」なのに「できる」と錯覚して人は生きていると思うのです。

それが「スランプ」の正体だと思うんです。

「できる」にするために、「依存」をしない

依存を減らすことこそが、理想の自分

理想の自分たちから、理想の自分にする

そうすれば

「レベル0の自分」

ではなく

「レベルアップした自分」

で生きていくことができる

そう思います。

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