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笑うな 〜チャールズ・ブコウスキー『パルプ』の凄味〜

 おもしろいものは好きですか?
 世の中にはたくさんのおもしろいものがありますね。例えばとっとこハム太郎。あれはものすごくおもしろいです。まずはネズミが喋っているというのが良い。1年も経たずに死ぬ運命を背負っていながら、理性を保っている。円滑にコミュニケーションをとり、友人関係を築き、恋人とファックし、子孫繁栄を目指す。とっとこハム太郎は人生の縮図だ。その意味で画期的かつおもしろい。誰が見てもおもしろい。強盗犯にナイフを突きつけられながら見てもおもしろい。お漏らししながら見てもおもしろい。死んでからもおもしろい。春になってもおもしろい。しかし、チャールズ・ブコウスキーの『パルプ』はあまりおもしろくない。
 チャールズ・ブコウスキーはアメリカの小説家だ。たくさんの小説を書いた。そして『パルプ』は彼の遺作に当たる。
 僕は個人的にチャールズ・ブコウスキーの小説を愛読しているが、この作品は初読時あまり好きになれなかった。というかはっきり言ってあまりおもしろくないと思った。
 『パルプ』は探偵小説である。探偵というと、シャーロック・ホームズとかフィリップ・マーロウとか江戸川コナンとか古畑任三郎とか(警察だったな)とかいろいろかっこいい主人公が思い浮かぶと思う。しかしこの小説の主人公のニック・ビレーンは全然かっこよくない。五十過ぎのおっさんでデブでブサイク、酒浸りでろくに仕事をしない。女にもてない。喧嘩は結構強い。あまり主人公らしくない。
 そしてストーリーもいい加減である。死神が出てきたり宇宙人が出てきたりする。事件は解決するというか、なりゆきで勝手に解決されていく。冴えた推理も、手に汗握るアクションシーンもない。だらだら進んでいく。
 ここまで読んできてくれた方はどう思うだろうか。この小説、おもしろそうですか?つまらなさそうですか?そうです、すごく「おもしろそう」ですよね?こんないい加減な小説が、おもしろくないわけはないんですよ。そう思ってくれる人が大半であると、信じています。でもね、これが、なぜか、おもしろくないんです。
 そんな『パルプ』は日本翻訳史上の傑作と言われているらしい。僕の所持しているちくま文庫版の帯にそう書いてあった。そのように言っているのは、小説家の高橋源一郎だ。『パルプ』は柴田元幸という翻訳家が訳した。
 『パルプ』が日本文学史上の傑作と言われているのはなぜなのか?その理由について高橋源一郎は、『小説の読み方、書き方、訳し方』という本の中で、「あの文章は、間違っているというか、おかしいというか(中略)いかなるコードにも従っていないように見えます」、「美文ではない。だが、ある意味すごく美しい。物語の進行が全部偶然というか(中略)あまりに完璧にでたらめなので、「美しい」と言うしかない。」等、述べている。
 こう書くと、ますます「おもしろそう」である。「あまりに完璧にでたらめなので」、「美しい」とまで評される小説があるだろうか。そんな小説ならぜったいに、おもしろいに決まっている。ぜったい、そうだ。でもね、これが、なぜか、どうしてか、おもしろくないんですよ!
 ところで、僕はこの小説をすごい小説だと思っている。ブコウスキーのある意味で「最高傑作」だと思っている。にも関わらず、「おもしろくない」と思っている。
 いったいどういうことなのか。

 ところで皆さんセックスは好きだろうか?酒は好きだろうか?暴力は好きだろうか?殺人は好きだろうか?戦争は好きだろうか?おそらく好きな人が大半だと思う。無論これは冗談ではない。
 そしてこの小説を書いたチャールズ・ブコウスキーもきっと好きだろう。なぜなら彼は過去の作品でたくさんのセックス、飲酒、暴力、殺人(あったかな)、戦争(これはなかった気がする)を書いてきたからだ。そしてそれは今作も同じである。
 人はチャールズ・ブコウスキーの小説をどう読むのだろうか。彼はその作品の性質上、「無頼」のイメージがつきまとう。女に溺れ、酒に溺れ、金もない、どうしようもない男。そういう自画像を彼は小説を通じて描いてきた。日本風に言えば「私小説」だろうか。破滅的な生涯を破滅的に書く。それを見て笑ったり呆れたり憧れたりするのが普通か?そうではないだろう。
 ブコウスキーの小説は圧倒的に切ない。どんなに粗暴で卑猥な可愛げのない日々を書いていても、その底にはある種の切なさが流れている。彼が元々は純粋無垢な人間であるから、と言うよりは、人間存在の底に流れる孤絶感が、酒浸りの日々の中でふと顔を覗かせる。それが切なさに繋がっていると思う。その切なさを読むのがブコウスキーの小説を読む醍醐味だと思う。
 しかし『パルプ』にはそれがない。
 セックス、酒、暴力は確かにこの作品にも描かれている。いやセックスはなかった。いつもあと一歩で逃してしまう。セックス未遂、酒、暴力はたくさんある。しかしそこには一定の暗いトーンが流れている。ある種の諦観。仕方なくやっている。飽き飽きしているというような、やる気のなさ。
 これは高橋源一郎氏の言っていることと重なるかもしれない。確かにこの小説の文章はおかしい。ブコウスキーのこれまでの小説とはまた違うおかしさなのだ。それは「完璧にでたらめ」だからなのだろうか。
 この小説を翻訳した柴田元幸氏は「訳者あとがき」の中でこんなことを言っている。

『パルプ』のニック・ビレーンは「人はみないつか死ぬ」という思いをくり返し口にし、それがこの破天荒な小説に憂鬱の影を投げかけてもいるのだが、ブコウスキー自身、この小説を執筆中に、迫りくる自分の死を意識していたのだろうか。けれどまあ、そういうセンチメンタルな詮索は、この永遠の不良老人には似つかわしくあるまい。

チャールズ・ブコウスキー『パルプ』「訳者あとがき」(筑摩書房,2016)p.309 

 柴田氏の言うとおり、この小説には常に死が影を落としている。ニック・ビレーンの独白ももちろんだが、文字どおりの「死神」が物語にたびたび現れる。しかし柴田氏は、この点について深く掘り下げてはいない。「そういうセンチメンタルな…」ということらしいが、僕はどちらかというと、この小説に絶えずつきまとう「死」は、破天荒で愉快な小説に落ちる影ではなく、むしろこの小説の本体ではないかと思っている。
 僕の持っている、ちくま文庫版の帯に書いてある宣伝文句を見てみよう。「伝説の怪作」、「最高にサイテーな傑作」、「エンタメ小説の最高到達点」、「予測不能のハチャメチャストーリー」等々並ぶ。しかし僕はこの小説を読めば読むほど、これらの宣伝文句に対する違和感が強くなっていく。そういう小説ではないだろう。絶対に違う。そんな、おもしろおかしい小説ではないのだ。なぜそれが分からない?
 確かにこの小説のプロットはめちゃくちゃである。死神、宇宙人、死んだはずの作家セリーヌ、尻軽女、筋肉バカ、ただのバカ、おもしろおかしい登場人物がたくさん出てきて、めちゃくちゃなことをする。いかにも笑えそうである。しかし僕には笑えない。それは、この小説全体に漂う死と終わりの臭いが濃すぎるからだ。
 例を挙げる。一つは柴田氏が指摘していたとおりである。主人公のニック・ビレーンは、ことあるごとに人生の儚さ、人の死について嘆く。それはこれまでのブコウスキーの小説では、巧みに隠されていた裏テーマであったはずだ。しかしこの小説ではそれが前面に出ている。「影を投げかけ」ているというレベルではない。にしては多すぎる。濃すぎる。
 あとは会話だ。この小説では登場人物たちがよく会話をする。しかしまともに心を通わせる(って何だ?)ような会話にはならない。大体において喧嘩腰である。そしてお互いにお互いを利用しようとしているか、痛めつけようとしているか、帰って欲しいと思っているか、当事者の思惑はそれらのうちのどれかである。そしてペラッペラの薄っぺらの乱暴な言葉の応酬だ。もちろんそれはおもしろくもある。しかしずーっとそれを見せられると、虚しくなってくる。これはなんのためにやっているのか?人間は何のために生きているのか?こんな人生は何なのか?その虚しさにやられてしまって、これまでのブコウスキーの小説にあった、あほらしさやくだらなさを突き抜けた爽快感がない、と僕は思う。彼自身が、だいぶその虚しさに飲まれているのではないか。
 そして会話にも関係することだが、この小説では慣用表現がその機能を失っている場面が多い。本来なら原書に当たるのが筋だが、柴田氏の翻訳を見ていてもそれはよく分かる。いくつか引用してみよう。

「いいかグローヴァーズ、テッド・ウィリアムズだってときどきは三振したさ。見てろ、はるか遠くまでかっ飛ばしてやるって。あんたの売女、二度と見えなくなるよ!」
「ジーニーは売女じゃないと思いますよ、ミスタ・ビレーン」
「単なる言葉のアヤだよ。べつに悪気はないさ」
チャールズ・ブコウスキー『パルプ』(筑摩書房,2016)p.118

「どこからはじめたらいいかわからん」
「じゃあまず、十から逆に数えてみなさい」
「お前のお袋にファックしやがれ」
「ほほう!」ダンディーは言った。「あなた、ご自分の母上と交わられたことがおありで?」
同上p.148

「それまでには何もかも解決しとくって、ベイビー」
「ベイビーはよせ。なんなんだいったい『ベイビー』って?」
「単なる言葉のアヤだって……」
同上p.194

 上から、「売女」はbit*h, 「母親と……」はmotherf*cker, 「ベイビー」はbabyといったあたりだろうか。これらの言葉は、普通会話の中で大した意味もなくなんとなく使われる(明らかに下品なものもあるが)表現である。しかし、この小説の登場人物は、そういう表現をまともに文字どおり受け止めることが多い。それでいちいち会話が止まるのだ。普通はスルーしているところに、いちいち引っかかってしまう。もちろんこれには会話を滑稽にする効果もあるが、ブコウスキー自身が、これらの言葉に対して、不信感や違和感をもっていたことを示しているのかもしれない。あるいは、なんの愛情もなく吐いて捨てられるこれらの言葉たちに、共感をもって、この小説の中につかの間の生を与えたのかもしれない。いずれにせよ、「普通に」生きている人間が「普通に」もっている言語感覚に狂いが生じている。
 こういうわけで僕はこの小説をまともには笑えないのだ。だって死に近づきすぎている。この世からずれすぎている。死神や宇宙人やエロい女やバカな男がどんなにバカなことをやっていても、なんだかみんな死に際の走馬灯に見える。まるで、これまでたくさん生まれては捨てられてきた数々のパルプ・フィクションたちの亡霊みたいだ。
 以上述べてきたことで伝わったかはわからないが、チャールズ・ブコウスキーの『パルプ』は、決しておもしろおかしい小説ではない。ちくま文庫版の帯を見る限り、また、柴田氏のあとがきを読んでも、そのような小説として読まれることを想定しているように思われるが、僕には決してそのようには読めない。むしろ、あほらしくて、破天荒で、ハチャメチャな小説の仮面をかぶっているのに隠しきれない異様な死の雰囲気、虚しさ、諦観を味わうための小説だと僕は思う。だから帯の文句に従って、この小説をハチャメチャなエンタメ小説として読もうとした初読時、僕は「おもしろくない」と感じた。そりゃそうだ。この小説はそんな小説じゃない。人間存在の根本にたどり着いてしまった、いやずり落ちてしまったブコウスキーが最後に残した渾身の「私小説」なのだ。そう読まなければこの小説の凄味は分からない。彼はこの小説にたどり着かざるを得なかったのだ。僕は、彼はこの小説が自分の遺作になるということを、かなり意識して書いていたと思う。この小説は彼の墓標である。いや、小説の墓標である。いや、言語の墓標である。いや、全ての、死んでいった(あるいは死んだことも気づかれていない)、表現と名のつくものたちが、最後に行きつく安息の地獄である。


引用文献

高橋源一郎・柴田元幸『小説の書き方、読み方、訳し方』(河出書房新社,2013)
チャールズ・ブコウスキー『パルプ』(筑摩書房,2016)

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