大阪徘徊手記

時刻は終電と始発のちょうど狭間。さほど馴染みのない市街の初めて通る小路。
プリミティブな恐怖と共に湧き立つ孤独感に、欠陥のある精神構造の心が満たされていく。
私はどこまで行っても私なのだと、自明に相違なかったはずの諦念に再三襲われ、ありもしない疼きを覚える。いっそのこと人肉を喰らいさえすれば、私は何か別の存在へと劇的に変われるのでは?
性慾に似たそれはしばし、この躰の下腹部の辺りに蠢々と滞留していた。

私がこの疼きと邂逅を果たしたのは、十余年前の夏。
当時の話し相手は同居人である祖母一人のみ。それも顔を合わせることをなるたけ避け、時たま夜更けに夜這い然と祖母の自室へ現れ滔々と思考を語って聞かせるに尽きた。
インターネットに触れる機会も作らず、文字であれ他者と言葉を交わすことがほとんどないに等しい生活に埋もれていた。数多のフィクション作品、すなわち物語にこそ絶えず触れていたものの、その暮らしぶりはまさしく非人間的。
そうした土壌あっての契機となったのは、異常性をてらった重犯罪をエリート捜査班がつぶさに分析して着実に犯人を追い詰める欧米の連続ドラマだった。
それは断じて、殺人犯に向けた憧憬ではなかったと思う。禁忌を犯す行為への憧れでは。
ただそこには明瞭な理解があったのだ。彼らを化け物たらしめる精神の臨界。誤った形質をもって常人を超えるということ。
実際に当時の私には、自身の内に得体の知れない某が棲みつき、その者に自我の領域が侵されているという妄想に苦悩する兆候が見られた。にわかに独り言が増えたのも同時期だった。
現実逃避が初期衝動ではあったのだろう。フィクション作品の創作に励むようになった私はあえてノイズのある環境を求め、安全地帯であった自室を飛び出し屋外へ。場所は毎日違えばどこでもよかったのだが、昼夜いずれもファミレスが最多だった。
その夜は自転車での行動範囲の際にあるファーストフード店を選んだ。その夜は、全国的に有名な花火大会の日の夜でもあった。
私の住居は会場とあまりにも近すぎたのだ。だからかその夜はなかんづく、店内が逃げ場所に思えたのかもしれない。
折しも構想を練りシナリオの執筆にまで及んでいた作品は、大切な人たちを亡くした成人男性の主人公が時を遡り小学生の“あの夏”に戻り、幾度となくやり直すことで大切な人たち全員が生きている現在を捻出しようとする物語。
そっくりそのまま私の願望でもあった。それに加えて、恋愛ひいては色事への渇望をこれでもかと刺激しうる若い幼い男女の洪水のごとし客足。
かくして狂う条件は賄えた。
その夜を皮切りに、私は血眼で慟哭をする化け物と化した。心なる物の底から、死にたての人体を焼いて食べたいと望んだ。宍(しし)を。

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