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死を意識してから考えたこと(まとめ)

 遺伝性の難病を原因とする致命的な症状が自分の体に現れたのが約4年前です。それ以来、死を意識することが多くなりました。自分の死を思うと、どうしてもネガティブな感情、「死にたくない」という気持ちが湧いてきます。それはどうしてだろうかと考えてみました。
 死ぬということは、意識が永久に失われることであり、自分という存在が消滅することであり、一切の体験ができなくなることです。また、この世で手に入れたものをすべて失い、この世のすべてと永久に別れることです。確かに、こうしたことを思うと死に対して悲しみや嫌悪感が湧いてきます。
 ではどうすれば、自分の死を受容して穏やかな気持ちで死を迎えることができるでしょうか。あれこれと考えてみました。
 まず、自分はこの世に生まれてきてよかったと、人生を肯定的に意味づけることが大事だと考えました。そのためにも、よい思い出、大切にしたい思い出をゆっくり振り返るようにしています。
 日頃から、生きていることをありがたいと思うように意識しています。例えば就寝時には「今日も無事に生きられたのはありがたいこと」と思いながら一日を振り返っています。難病の身でありながらこの年齢まで生きられたのはありがたいものだと思うようになりました。
 死を前にして後悔しないために、残りの人生の一日一日を大切に生きることを心がけるようになりました。起床時には「今日一日を有意義に生きよう」と意識しています。また、むずかしくはない小さな目標(例えば「今日は図書館で借りた本を1ページ以上読む」といったもの)を立てて、それを実現していくようにしています。
 生きられる時間を仮に限定して、時間をどのように使うべきかを考えるようにしています。例えば、あと1カ月だけ生きられるとしたら、その1カ月をどのように過ごすか考えています。また、「もうすぐ意識を失って、回復することはない」と想定して、そうなればどんなことを思えばいいだろうかと考えています。
 これまでの人生を振り返ると、本当はそれほど大切ではない事柄について思い悩んだり苛立ったりしたことが多かったということにも気づきました。さまざまなとらわれに気づいて、それらを少しずつでも手放すようにすると気持ちが楽になるのを実感するようになりました。
 自分の死後について気がかりなことがあると気持ちが落ち着きません。そこで、いわゆる生前整理を少しずつ続けています。また、エンディングノートのようなものをまだ不完全ながら書いてみました。
 こうしたことを考える中で、貪瞋痴(とんじんち)という仏教語を思い出しました。貪とは欲望や執着心にとらわれていること、瞋とは怒り、憎しみなどネガティブな感情に振り回されること、痴とはこの世界の真理をわかっていないことと私は解釈しています。人生における苦しみの原因の中でも代表的なものです。なるほど、この三つからいくらかでも解放されることで、死の不安や悲しみも薄れていくように思います。
 普段はほとんど意識されないことですが、私たち人間も生物の一種であり、動物の一種であるわけです。人間が死から逃れることはできないのは生物学的な真実です。その一方で、生物にはなんとかして自らの生存を維持しようとする基本的な性質があります。この両者の根本的な矛盾が人間に苦しみを感じさせているように思います。だとすれば、死を科学的に認識、理解することによって少しは冷静に死を受けとめることができそうです。
 死を受容することは私にとって切実な課題であり、たやすくはない内面的な作業です。それでも、仏教思想と自然科学がこうしたところで役に立つとは少しばかり意外な発見でした。
 以上、これまで考えてきたことをとりあえずまとめてみました。

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