ら・ら・らんどを見て改めて

先日東京の国際フォーラムで上演された「LA LA LAND Live in Concert : A Celebration of Hollywood」を観てきた。これは映画「LA LA LAND」を巨大スクリーン上映しながら、音楽(主にオーケストラ)の部分は東京21世紀管弦楽団の皆さんが生演奏をして下さり、映画館を超える臨場感と、ライブ会場と同様の一体感、没入感を味わえるとても素敵な公演だった。オーケストラの前ではダンサーの皆さん、バックではコーラスの皆さん、そして何より指揮者は映画の作曲を担当したJustin Hurwitzが来日して場を盛り上げてくださった。全く余韻が色あせないおかげで、とりあえずここ1-2週間は仕事も全力投球できている。とてもとてもありがとうございました。


と、公演のご紹介はここまで(映画のオーケストラ上映は本当にお薦めなので、皆さんも是非。)。
これ以降はネタバレ含みますので、まだ観ていない方はご遠慮いただいた方が良いかもしれません。


「LA LA LAND」自体は2017年に公開された。
ハリウッドで成功する事を夢見る若者たち。そこでの出会い。夢を追いかけることに重きを置いているからこそ、時には別れを選ぶ結果となっても夢をかなえることに全力を注ぐ姿に、中途半端な気持ちで生きていると喝を入れられたような気持ちになる。
5年前に映画を観たときはハッピーエンドの描写に惑わされて、最後のどんでん返しについていけなかった。(実際はそうならないように編成されているが、ちゃんと集中してみていなかったんでしょうね…とほほ)
そしてこの映画を観た人同士で必ず議論にでるのが、エンディングの好き嫌いだ。最後はハッピーエンドで夢を見させてほしかったという人と、愛と夢、どちらかが犠牲になるのは仕方ないという酸っぱい現実だからこそ感動するし、心に残るという人と。

ここで是非を問うつもりはないが、ふと逆だったらどうだったのだろうと思う。
このまま頑張れば夢がかなう!というときに愛を選んで、そして平和に平凡に家族と暮らすというストーリーだったら、なーんだ、結局、恋とか愛ですか。というちょっと白けた反応にならないだろうか。(オーディション受かってパリに行くことが決まったのにやっぱりやめて結婚します。とか)
愛か、夢か。であればどちらを取ったところで同じように悩むのに、どうして愛を諦めて夢を追いかける方が美談として書かれやすいのだろう。

それは愛が身近にあふれていて、比較的手に入れやすい(形はどうであれ)のに対して、自分の夢を叶える、そこで成功するのが一般的には難しいし困難が多いとされているからというのもあるのではないだろうか。

それは身近な例でも言えることで、仕事での昇進に一生懸命になるあまりに家庭をないがしろにしてしまう例は後を絶たない。しかも仕事や夢は努力を続ける限り、理不尽に自分を裏切ることはない。

逆に愛は、生まれたときから近くにあって、そしてありのままでいても寄り添ってくれて、でもあるときよく分からない理由で突然なくなるかもしれない不確実なものだ。だからこそそこに全てをかけるのは甘えだと考えることもできる。だからこそ逆にその”愛”に恵まれているのはとても奇跡的なことではないだろうか。

言いたいことはまとまらず発散していくが、現代社会にはキャリアや趣味など、個人でどこまでも時間を費やせるモノ・コトがあふれている。そして古き良き家族像に後ろ髪引かれながらも自己実現を持ち上げる空気が流れているような気がする。

「LA LA LAND」では2つの取捨選択となったが、この構成を見るとどうしても愛と夢、その2つが同等の比較対象ではなく、観客のバイアスとして存在する、どちらかがどちらかに対して優れている、ただもう片方も捨て難いという共通認識の上に立っている気がしてならない。

私一個人としては、どんどん成長する社会のなかで、最先端を常に追い求めるのではなく、まるで木の年輪のようにしっかりと着実につながりや愛に根差した個人の発展をすることが、一番ストレスなく、しなやかな成長ができるのはないかと考える。

むしろこれを書いている時点で、「LA LA LAND」はそんな現代社会におけるバイアスへの問いかけなのかもしれない、とも思い始めてきました。脳内ぐるぐる回っておりますが、収集つかないのでひとまずこれにて。


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