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海の君へ | 小説(「浦島太郎」翻案)

「捨てておいたわよ」

 本棚の前で呆然とする私に、母はいつものように明るく言った。

「ダメよ、あんな本読んでたら頭がおかしくなるでしょう。あなたにはもっと善いものを読んで欲しいの」

 視界が狭くなる。私は黙って椅子に座った。なにかを言おうとして口を開き、でも言葉はなにも出てこなかった。いのちなき砂のかなしさよ。いつものように、心で唱える。続きはなんだっけ。

「川柳ですっけ。俳句? まあなんでもいいわ、女の子はもっと明るくて可愛らしいものを嗜むべきよ。男の人なんて結局はみんな自立した可愛げのない人より、守りたくなるか弱い女の子が好きなんだから」

 違うよ、あれは短歌だよ。私はもう28歳で、女の子とはいえないよ。ねえ、もういまの時代の男性は自立した女性を選ぶんだよ。ねえ。私を選ぶ男の人なんて、この世のどこにもいないんだよ。ねえ、私があんなに大切にしていた歌集をどうして簡単に捨ててしまえるの。ひとつも口にできないまま、床の模様が滲んでいく。そんな私に、母は明るい声で続けた。

「そういえば、明日はお給料日よね? 今月もよろしくね」

いのちなき砂のかなしさよ
さらさらと
握れば指のあひだより落つ

 ゆっくりと脳裏によみがえる。私の存在も、労働力もお金も、好きなものも、すべてが砂のようにさらさらとこぼれ落ちていく。これまでずっとずっとそうだった、これからも、ずっと?
 顔が熱い。ぐっと歯を食いしばる。

「え、どうしたの」

 やっと異変に気づいた母を尻目に、私は自分の部屋から通帳やカードなどの貴重品を取り出してハンドバッグに詰める。私の全財産は、両手ほどの黒いバックにすっぽりと収まってしまった。

「ねえ、本当にどうしたのよ。こんな時間に出かけるの?」

 高価な貴金属など手にした事の無い自分が、本当に持って行きたかったのはあの黒い表紙の一冊だけだったのに。

「ねえ、ちょっと!」

 母の金切り声を背に、私は家を飛び出した。



 赤、青、白、赤、赤、白。
 視界を埋め尽くすネオンの光が、じりじりと目を焼く。金曜日の23時。新宿歌舞伎町は想像の何倍も眩しく、人工的だった。

 ふいに、斜め前を歩く人がある一点に向かって走り出した。近くに人だかりができている。人が集まるということは、もしかして芸能人かしら。皆がスマホを取り出し、やばい、と言いながら写真や動画を撮っている。
 テレビをほとんど見せて貰えない自分でも分かる人だったらいいな、と沈んだ気持ちがほんのり浮き上がった。
 ぐっと背伸びをして覗き込む。中央には、金髪の男の人がこちらに背中を向けて立っていた。ずいぶん派手な人、と思ううちにゆっくりその人は倒れ込む。女の人と向かい合っていたのだと気づいたのと、その人が手にしているものから赤い液体が滴っているのが見えたのはほぼ同時だった。一瞬、周囲の音が消えた。
 背筋に氷を突っ込まれたかのような冷たさが走る。

「やばいって」「え、死んだ?」「殺人事件じゃん」「怖い怖い怖い怖い」「やばくない?」「刺されてるって」「やばいだろこれ」「ケーサツ?」「まだナイフ持ってるじゃん、やば」わっとまわりから湧き出ることばたちと共に、刺した女性は奇声をあげながら走り去ってしまった。

「え、やばいよねこれ」

 隣でスマホを構えたままの若い男の人がぼそりと呟く。なんで撮っているんだろう。なんで撮るのをやめないんだろう。

「警察、いや救急車って呼びましたか?」

 私の言葉に、彼は眉をひそめた。

「いや、どうせホストと客のトラブルでしょ」

 なにを言って、と思ううちにひとり、またひとりと素知らぬ顔でその場を去り始めた。うつ伏せで倒れ込み、肩で息をしている金髪の男性を見る。この人の命も、砂のようにさらさらと目の前で消えてしまうのか。
 私みたいだ、そう思うより早く足が動いていた。

「大丈夫ですか」

 体を起こし、仰向けにさせる。重い。成人男性ってこんなに重いのか。

「私の声、聞こえますか? いま救急車呼びますから」

 震える手でスマホを取り出す。彼が押さえている右手の下、腰のあたりが真っ赤になっているのが見える。110番だっけ、119番? どうしよう、私がこうしている間にこの人が死んでしまったら。どうしよう。どうしたら。

「……救急車は、呼ばないで」

 耳元で低い声がして、思わずスマホを落とした。

「ちょっと事情があって、病院には行けないから。俺は大丈夫、お姉さんは気にせず帰りな」

 青白い顔で金髪の彼が喋っていた。

「大丈夫ではないでしょう……」
「いや、刺されることはよくあるから。骨にあててるから内臓まで行ってない、本当に大丈夫」

 なにを言っているのかよく分からないが、ナイフで刺されて大丈夫な人間などいない。病院に行けないのならせめて、と自分が羽織っている白いカーディガンを割いた。

「ちょっと、なにやってんの」

 ぎょっとしている彼の傷にあてて縛る。応急処置だが、ないよりはましだろう。

「……ありがとう」

 驚いた表情の彼にお礼を言われて、自分がどれほど大胆なことをしたのか気づいた。全身から力が抜けて立てない。両手とも真っ赤になっている。私が刺したと思われても仕方がないかもしれない。

「ちょっとまって、人呼ぶから」

 スマホで誰かを呼び出している彼の顔を見上げた。金髪に負けない、大きな目や高い鼻がはっきりと見える。彫刻のような冷たさすらある整った顔は、少し怖い。電話を終えた彼は、こちらに向かって薄く笑った。



「あの……」
「どうした?」
「本当にお腹、大丈夫なんですか?」
「痛み止めが効いてきたから大丈夫だよ」

 そういう問題じゃないのでは、と言おうとして口を閉じた。目の前には広い広い海が波音をたてている。遠くに見える橋やビルがキラキラと光っていて、くらくらするほどに綺麗だ。

「なぜ、お台場に……?」
「海が見たいって言ったでしょ」

 そうですけど、とまた私は黙る。
 駆けつけた人の手を借りて移動した怪しい部屋で、ヒロトさん(という名前らしい、きっと本名ではないだろう)は手当てを受け、私は手を洗ってなぜかあった女性もののワンピースを貰った。御礼はなにがいい、と問われて咄嗟に「海が見たい」と言ったのもつかの間、黒くてやた長い車に乗せられて今に至る。
 なにもかも初めてで困惑することばかりで、思考などとっくに止まっていた。

「歌舞伎町に何しに来てたの? 普段来ないタイプでしょ」
「……はい、初めてでした」
「初めての歌舞伎町でホストが刺されてるの見たのか」

 可笑しそうに謝るヒロトさんに、やっぱりホストなんだなと思った。売れている人なのだろうか。格好いいから、きっと色んな女の人がお金を払うのだろう。縁がない世界だ。

「実家から家出したんです」
「へえ、どうして?」

 30手前の女が家出だなんて幼稚だな、と改めて口にしてから思った。でもいいか。きっとこの先、会うこともないだろうし。

「本を捨てられたので」

 なんて無様な、子どもっぽい言い訳。なにか言われるかと顔を見ると、穏やかな笑顔のまま「なんて本?」と聞かれる。

「石川啄木の歌集です。『一握の砂』っていう本……知らないですよね」
「いや、分かるよ。重い短歌ばかりだよね」
「え、知ってるんですか」

 素っ頓狂な声が出てしまう。

「ホストだって、勉強しなきゃお客さんと楽しくお話できないんだよ」

 ふふ、と得意げに笑うヒロトさんはどこか幼く見えて、胸がぎゅっとした。

「ずっと好きで大切にしていたんです」

 海の先を見て、ヒロトさんが呟く。

「東海の小島の磯の白砂に」
「え」

 こちらに首を傾げる茶目っ気のある笑顔。慌てて記憶を探り言葉を繋ぐ。

「……われ泣きぬれて」

 ヒロトさんは満足そうに頷く。

「蟹とたはむる……蟹はさすがに、いないかな」
「え、すごいです。覚えているんですね」
「ほら、次だよ」

 えっと、と記憶を手繰り寄せる。2句目のはずだ。

「頬につたふ」
「なみだのごはず」

 間髪入れずに発せられることばに、どうしても嬉しく思ってしまう。悔しい。悔しいけれど、嬉しい。

 一握の砂を示しし人を忘れず。

 口にすればそれは淡白で、でもだからこそいまの私には応えた。私だって、たったひと握りの砂で、それでもそれを誇って生きていきたかった。私の稼いだお金がすべて家のために消えても、両親が私のことを大切にしてくれなくても。

「忘れないでいたいね」

 え、と顔を見ると、ヒロトさんは黙って遠くを見ていた。なにを見ているのか分からない。ただ、私に見えないものを見ているのだろうなと、それだけは分かってしまう。

「忘れないです」

 なにを、とも言い交わさず、私たちは黙って海を見た。黒い、得体の知れないものが這い上がって来そうな海。その上に煌めく光はきっとあのネオンと大差ないのだろうけど、なぜか絵画のように美しく見えてしまう。
 ずっとこのままならよいなと思った。よく知らない、美しい男の人と夜の底みたいな海の前にずっと、ずっといたい。溶けて消えてしまってもいいから。


「帰ろっか」

 朝日が上り、私たちは立ち上がった。

「この後、どうするの」

 聞かれた私は、まず家を探すところからですねと答える。

「家に帰っちゃだめだよ」

 ふいにヒロトさんは言った。

「絶対に、実家の扉を開けちゃだめだよ」

 ばちり、と目が合う。
 笑っている顔の中で、瞳だけがまっすぐに光って見えた。

「なんで」
「もう一度俺に会いたいなら、家には帰らずに1人で生きてみて」

 息を飲む。数秒、夜明けのぬるい空気が肺に満ちたのを確認して大きく息を吐いた。

「はい。まず家を探してみます。職場からあんまり遠くないところで」

 なにも話していないのに、すべてを知っているような顔をしてヒロトさんは頷く。はいこれ、と手渡されたのは私のスマホだった。

「落としたまま忘れてたでしょ。危ないよ、こうやって知らない男に着いていくのも」

 ありがとうございます、とスマホを受け取る。魔法の制限時間が来たようだった。


 気づけば私はひとりで電車に乗っていた。スマホの連絡先を見るが、当たり前にヒロトさんの名前はない。
 ふたりで海岸にいたときにはあった高揚感が、するすると萎んでいくのが分かった。夢だったんじゃないかと思う。現実を受け入れられない私が、私に見せた都合のいい夢。

 帰らなきゃ。

 ふいに頭にことばが浮かぶ。頭がいっぱいになる。私が養っている両親、こんな私を世話してくれている両親。私が帰らなかったら死んでしまうかもしれない。こんなことを考えるだけでも、親不孝者だ。帰らなきゃ。帰らなきゃ帰らなきゃ帰らなきゃ帰らなきゃ帰らなきゃ。
 電車を乗り継ぎ、足早に進む。閑散としたホームを走り、帰路を急いだ。見慣れた扉に、安堵感で胸がいっぱいになる。がちゃり、と開けて中に入ると、家はしんとしていた。
 もしかして、外で私を探し回っているのか。もう一度外に行こうか、と思った瞬間だった。

 パリン、と右耳のすぐそばでなにかが割れる音がした。一瞬の間をおいて、耳がかっと熱くなる。

「随分と遅いお帰りだったね」

 部屋の奥から、にこにことして母がこちらに向かってくる。たらたらと肩に流れ落ちて来ているのが血だと、自分になにかを投げつけて怪我をさせたのは母なのだと、理解するまでたっぷりと時間がかかった。

「……どうして」
「どうしては、こっちの台詞だ!!!」

 笑顔を崩して母は般若の顔になる。絶対に、実家の扉を開けちゃだめだよ。ヒロトさんのことばがよみがえる。どうして私は帰ってきてしまったんだろう。私を砂のように消費する、この家に。
 走って家を出る。手当り次第に物が投げつけられているのを横目に、もう二度と通らないであろう玄関の扉を抜けて外へと向かった。

 電車に揺られながら、何十件もの母からの不在着信を眺める。震える手で連絡先をブロックする。そのままSNSで昨夜の事件を検索したけれど、ホストが刺されただなんて投稿はひとつも見当たらなかった。
 もう、二度と彼と会えないのか。
 窓に流れていく景色が、じわりと滲む。彼と会えないだけではない、私はこれから、失った27年分をたったひとりで取り返さないといけない。

「一握の砂を、示しし」

 口の中で転がすように、ゆっくり呟く。
 どこか適当な駅で降りて、まずは本屋を探そう。あの本を買おう、ずっとずっと、忘れないように。私だけは私の価値を、どうか忘れないように。

 涙が頬を伝っていく。

 ぬぐわないで、じっと外を見つめる。夜の海と同じくらい、街並みは静かで綺麗だった。


出典:「一握の砂」石川啄木

頬につたふ
なみだのごはず
一握の砂を示しし人を忘れず


頬につたう涙をぬぐうこともせず、一握りの砂を示してくれた人のことを、忘れることはない。

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