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桜の伴奏者 第2話

【前回のあらすじ】
 私(主人公・ユキ)は病院でエンジニアとして働いている。夫のカズキが若くして認知症を患ったことで、記憶を外部化するAI装置・パートナーのカズキの脳内への導入を決意。手術が成功したカズキは、それまでのように記憶の定着と引き出しが可能となり、明るく穏やかな性格を取り戻したが……。
 夫婦の恋愛×SF

「違法行為ではないんですか」

 カズキの病気が発覚した後、「京本・アブレイユ方式脳機能代替機器(通称・パートナー)」の説明を聞きに行った私は、京本先生にそう聞いた。記憶を外部化のデータベースに保存し、脳内に埋め込まれたチップのAIが記憶の保存と引き出しを行うというものだ。認知症のカズキが自分の記憶を保ち続けるために、試さないかと言われたのはつい先日のことだった。

 小さな白い部屋は、私と京本先生しかいない。パートナーの話をひと通り終えた京本先生は、意外そうに片眉を上げた。

「へえ、この話を信じるんですね」
「先生は、変な嘘をつくほどお暇な方ではないでしょう」
 語気を荒くして言い返すと、彼は大きな声で笑った。

 私は京本先生が所属している、この大学病院で働くITエンジニアだ。院内システムの保守を任されて、10年ほどになる。普段、先生たちとは関わりが薄いが、それでも耳に入ってくるほど有名なのが京本先生だった。

「失礼、失礼。ありがとう、信じてくれるなら話は早いな。さすが、うちのシステムを守ってくれているだけあるねえ」
 唇の端に笑みを残して、すっと真剣な顔になった。
「お互い、建設的な話をしようか」
 今までとは違う、低い声。びくりとして、思わず背筋が伸びた。

「突拍子のない話だと思うけれど、パートナーはすでに技術的には成功している。ただ、もちろんいくつか問題点がある。それを解消するために、きみときみの夫の力を貸してほしい」
「問題点とは、なんでしょうか」

「まずこれは、根本的な治療ではない。対処療法として、症状を遅らせることが可能なくらいだ。補助的な装置にしかならない、私たちが重要なことをメモするのと同じことを、リアルタイムでデータベースに入れ続けているだけだ。そこから情報を引き出すのも、脳神経から指示を出されたAIが代替して行なっているだけ。症状が進み、脳が萎縮してその信号すら送れなくなったら、意味をなさない。情報の貯蓄と引き出しを行うだけで、思考や指示は本来の脳で行なっているからだ」

「……はい」
 噛み砕いて説明をしてくれているのだろうが、うっすらとしか理解できない。それでも話を聞き続けるしか、私には選択肢がない。

「圧倒的にまだデータが足りないんだ。実際に組み込んだ例は数件あるが、それだけだと不足情報が多い。もしかしたら治療や延命につながるかもしれないし、別のかたちでのシステムも考えられるかもしれない」
「被験者が欲しい、ということでしょうか」
 やっと話が見えてきた私が間髪いれずに尋ねると、京本先生はゆっくり頷いた。

「若年性アルツハイマー病は、まだ被験者がいないんだ。貴重なデータになるだろう」
「先生。私の夫はモルモットではありません。データのためだけに、なにがあるか分からない、命の保証もない実験に夫を差し出せると思いますか」
 京本先生は私を静かに見つめ、「モルモットでは、ないよ」と宥めるように言った。人間をなんだと思っているんだ、先生様がそんなに偉いのか。怒りを込めて、その目をまっすぐに見据える。

「余命10年から15年」
「……はい。理解しています」

「このままだと、きみの夫の症状は悪化の一途を辿るだろう。今は軽度だが、若年性は進行が非常に早い。きみのことも、きっとすぐに分からなくなる。仕事もできない。イライラしたり怒鳴ったりするようになるかもしれない。余命自体は大きくは変えられない、だとしたらその間だけは自分の記憶を自分で操れる状態であるほうが、きみもきみの夫も幸せでいられるんじゃないかと、そう思うのだけれどね」

 言葉が出ない。京本先生の言うことはあまりに非現実的で、きっとリスクも大きくて、心が弱っているいまの私がこんな怪しい話に乗ることは間違っていると分かっている、分かっているのだけれど。

 診断を受けて、カズキは一切外に出なくなった。仕事は事情を話して休暇をもらい、迷惑をかけるからと自室に引きこもってしまった。私との会話も詰まることが多くストレスを感じるのか、もうあまり話をしてくれない。この日々が、いや、これよりもっと酷くなっていく一方の日々が、あと10年、15年続くのか。イライラするのだろう、何度も声を荒げようとしては、まだかすかに残る穏やかな彼が強く自分自身の手の甲をつねって我慢をしていた。

 赤く黒く変色していくその跡を見るのは、私は、つらい。

「副作用はなんですか」
 お、と京本先生の顔がほころぶ。
「いま分かっているのは、脳の処理を通常よりも多くするため睡眠時間が伸びるということだ。同じ理由で、脳神経をすり減らす速度も早い。寿命も少し縮まるかもしれん」

「倫理的なタブーではないですか」
「人の脳を外と繋げてどうこうするってのだから、もちろんまだ倫理的には厳しいね。外部化した情報が書き換えられないよう注意しないといけないし、プライバシーの問題もある」

「本人の意図しない言動が発生することはありますか。パートナー側からの一方的な働きかけによって勝手に走り出すなど、システムやこちらの研究所からの指示で体が動くようなことがるのは嫌です」
「パートナーはあくまで『伴奏者(パートナー)』だから、記憶の部分を一緒に行ってくれるだけ。サポートの範囲でしか指示を出さないんだ。それによってなにをするか決めるのは本人。まあテスト段階だから、誤作動がないとはいえないけどね」

 どんな答えであっても納得などできないし理解も及ばないが、不安があふれて止まらない。身体中から汗が吹き出しているのが分かる。
 こんな話、どう信じろっていうんだ。でも、信じざるを得ない妙な説得力もあり、心が揺れて頭はパンクしそうになっている。

「どうして、『パートナー』なのですか」
「え?」

 思わず口からこぼれ落ちた言葉は、情けないほどどうでもいい質問だった。

「カズキのパートナーは、妻は、私です。私が、」
 ……私が、頼りないから? 私が、なにもしてあげられないから? 京本先生になにを言ってほしいのだろう、絶望するほどにどうしようもない言葉たちを飲み込むと、喉がごくりと鳴った。

 白い部屋に沈黙が降りる。
 どうしてこんなことに。なんでカズキが。ほかに方法は。ぐるぐると頭を駆け巡る答えなんてない問いに、目の前が暗くなっていく気がした。
 たっぷり30秒ほど黙って、京本先生は口を開いた。

「1億円」
「え」

 想像もつかないほどの金額。混濁した思考が一気に停止した。1億円?

「このシステムが実用化が可能になって、販売されたときの推定価格だ。まだ怪しい部分が多過ぎて、あと十年は認可が降りないだろうが。クリアにしなくてはならないことが多いし、反対の声も上がるはずだ。それでも、高齢化社会が進むにつれて、この技術はいずれかならず必要とされる。そうなったら、きみの手にはもう届かないだろう。今回のこれは、モニターという名の人体実験であることは否定できない。それでも、きみの前にはいまチャンスがある。よく、考えて欲しい」

 はい、と呟いて下を向く。真っ白な床が滲んだ。

 断れるわけ、ないじゃないか。この状況で。それを知られた上での打診なのだ。悔しい。悔しいが、私にはいま、ほかに選べる道がない。

「そうだ、最後に言っておくことがある」
 まだなにか、と顔を上げた私に、京本先生は穏やかな顔で続けた。

「きみなら分かるだろうが、このシステムは非常に重い処理をし続ける。サーバや開発・改良のコストもかかるし運用・保守も手間がかかってエンジニアは何人いても足りない。この業務に、きみを異動させることは可能だ。二人分の生活もかかっているだろう、給料も弾もう」
 すべてを見通したような目で、京本先生は続けた。
「きっときみのことだ、夫の脳に入るシステムに対して、得体の知れない不安も底知れない興味もあるんじゃないか」

 迷っている時間はない。直感で、そう思った。
 大きく息を吸う。ふう、と吐いた。

「……まず、すでにシステムを導入したモニターと話はできますか」
 京本先生がにやりと笑う。

「交渉成立!」という野太い声が小さな部屋に響いた。


 天に大きく伸びをする。
 暑くも寒くもない心地よい気温、穏やかな青空。足元の芝生は青々としていて、時折流れる風は優しく頬を撫でた。

「気持ちがいいね」
 カズキが横で、ふわりとあくびをする。
「ね、もう春だ。たまには外に出ないとだめだね」
 近所の小さな公園のベンチには、どこからか風に乗ってさらさらと桜の花びらが運ばれてくる。研究所にこもりきりの身に、陽の光は染みた。ベンチの頭上を覆う大木——ネムノキは、葉を擦り合わせて優しい音を立てていた。

「ユキは運動不足だよ。ときどきこうやって散歩して、日光を浴びないと」
「分かってるんだけど、なかなかねえ……」
「このまま神社まで歩いてもいいね。参道のカフェのプリン、美味しいし」

 手術が終わって一ヶ月ほどの経過観察を経て、問題なしと認められたカズキは自宅へ帰ってきた。パートナーにも慣れ、澱みなく会話が続く。もうすっかり、前の生活と変わらないくらいに見えた。

「せっかく運動しても、甘いもの食べたら意味ないんじゃない?」
「いいの、いいの。栄養は大事」
 軽口を叩きながら、指を絡め合う。指先で、彼の薬指にはまる指輪をなぞった。

 記憶が外部化され、カズキの顔にはみるみるうちに生気が戻った。こけた頬は徐々に肉がつき、簡単に折れそうなほど細くなってしまった指はもう指輪をはめても抜けない。診断がおりてから手術までの半年間、その指にはピンクゴールドがない期間があった。

 私が研究所へ異動してシステムの構成やプログラムの中身を理解するまで、手術は受けさせたくなかった。その間、薬で食い止めてもやはり、カズキの頭から記憶はぼろぼろとこぼれおちていった。

 いいのだ。希望はあるから。

 何度も思った。そう思うことで、自分を奮い立たせる毎日だった。たかが半年。私は大丈夫だった、一緒に何度も見たお気に入りの映画を気に入らないと見向きもされなくなっても、ためらいなく怒鳴りつけるようになっても。私のことが分からなくなっても、指輪を抜き取って邪魔だと投げつけられても、にこりとも笑わなくなっても、絶対に私がパートナーですべて元に戻してみせるから。

 なんだってやってやる。なにをされたって構わない。
 目の前で大泣きされても、ひとことも口を効いてくれなくても、私は信じ続けて日々を過ごした。寂れた公園でゆったりと日向ぼっこする、こんな日が来ることだけを信じて。

「職場、復帰していいみたい」
 カズキの言葉に、「本当!?」と大きな声が出てしまう。
「そんな、早くないかしら。もう少し休まなくても大丈夫なのかな」
「うん、さすがに前の仕事はできないけどね。ほとんど覚えていなくて……。総務で、できることを少しずつやらせてもらえるみたい」
「ごめんなさい、前の仕事の内容が私には分からなくて……サポートに情報を入れることができていたら良かったのだけれど」
「仕方ないよ、会社から情報の持ち出しはできないし。それより、自分にもなにかできることがあるっていうことがすごく嬉しいんだ」

 首を傾げる私にカズキは言った。
「ユキが僕のためにいろんなことをしてくれて、本当にありがたいし心強いけど、いつまでも頼りっぱなしなのは嫌だ。できることは自分でやりたいし、可能ならできることを増やしていきたい」
 症状に苦しむカズキの姿を思い出す。
「……パートナーを入れる前も、そうだったのかしら」
「朧げにしか思い出せないけれど、ずっと申し訳なかった。なにもかもしてもらって、でもそれも覚えていられなくて。申し訳ないと思い続けて生活するのも、ストレスがかかるんだ。ユキが悪いんじゃなくて、僕の気持ちの問題でもあるんだけれど」
「ごめんなさい、私、そこまで考えられていなかった」

 カズキは私の頭をぐしゃぐしゃと撫でる。
「ううん、謝らないで。きっと僕がきみの立場でもそうしたよ。いまはとにかく、先のことを考えて前向きにいきたいんだ。せっかくだしね」
 明るい顔で未来のことを語るカズキに、頷いてみせる。カズキのこういうところが、ずっと好きで、何度も救われてきた。強いストレスや疲れから解放されたその顔が、もう歪まないでほしい。
「仕事、無理しないでね」
「ありがとう。様子を見ながらにするよ。ユキも無理しないで」

 どきり、とするがカズキの言葉に他意はないようだった。

 私がカズキのために、いまの仕事に異動したことをカズキは知らない。私と出会ってから今までの3年間の記憶はほぼ薄れていた。私はもともといまの仕事をしており、たまたま研究対象として運良くカズキが選ばれたということにしてある。症状のひどい時期の記憶同様、知らないほうがいいことなんてたくさんある。私が知らせたくないことも、たくさん、ある。

「またこうやってふたりでゆっくり過ごそう」
 カズキの言葉に頷き、なにか言おうとして「ずっとこのままではいられないし」という声にかき消された。自分の表情が固まるのが分かる。
「え」

 カズキはまっすぐに前を向いて、遠くを見ていた。目線を追うと、女性がベビーカーを押してゆっくりと歩いている。カズキはこちらを見ないまま続けた。

「分かってる。こうして記憶を操れるようになってまるで普通の人みたいだけど、僕の脳はゆっくりと萎縮していく。今はユキを見てすぐに『ユキ』って分かるけど、この人だれだっけ、と思ったら、その次は人、が分からなくなる。ごはんも、食べたっけ、と思うようになったら最後には『ごはん』が分からなくなる。知らない概念について、データベースに問い合わせはできない」

「なんで、そんなこと言うの」
 声が震える。ベビーカーを押す女性は、角を曲がって視界から消えた。私は穏やかな顔で木漏れ日を受けるカズキの顔を見る。固く握った手のひらに爪が食い込んで痛い。

「それが何年後か分からないけれど、でも、きっと遠くない未来に僕はパートナーを使いこなすこともできなくなっていくと思う。そうだよね?」
 こちらを向いて優しく髪を撫でるカズキの手を払いのけようとして、でも、できなかった。

 カズキは、私なんかの何倍も頭がよかった。あえて私や京本先生が告げない事実なんて、たやすく辿り着いてしまう。パートナーは――あくまで『伴奏者(パートナー)』だから、サポートの範囲でしか指示を出さない。なにかを検索し続けている状態だから、検索対象が認知できなくなったら、それは意味をなさない。

 カズキはいつか、すべてを思い出せなくなる。パートナーはいつか、カズキの記憶を詰め込んだただの箱になる。

 分かっていた。私も京本先生も最初からずっと分かっていて、その日を1日でも伸ばしたくて、限度をなくしたくて。
「僕がパートナーを使えなくなる日まで、精一杯いろんな思い出を作りたいよ。あと10年、いや5年でも。少しずつまた、いろんなことができなくなっていくのは怖いよ。それでも、せっかくユキたちがくれたチャンスだから。できることはいろいろしたいんだ」

 俯いて、涙を堪える。泣くな、泣きたいのは私じゃない。私じゃ、ない。

「……わかった。いっぱい、いろんなことをしよう」
 私の言葉にカズキは笑顔で頷く。
「でもね、私たちの研究はもっと進歩する。絶対に、絶対に、あなたを助ける」

 このくらいの嘘なら許されるだろう。
 希望をもって生きて欲しい。明るい、こんな穏やかな春の日のような景色ばかり見ていてほしい。
「だから、お願い。悲観しないで」

 カズキはなにかを言いかけ、じっと私の目を見つめてから、「期待してるよ」とだけ言って笑った。


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