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桜の伴奏者 第1話

【あらすじ】
 私(主人公・ユキ)は病院でエンジニアとして働いている。夫のカズキが若くして認知症を患ったことで、記憶を外部化するAI装置「京本・アブレイユ方式脳機能代替機器(通称・パートナー)」をカズキの脳内へ導入することを決意。手術が成功したカズキは元気になるも、装置の限界に気づいて私は葛藤を抱える。周囲も本人もつらく苦しい認知症の中で、楽しく美しい記憶だけを夫に抱えていて欲しい私は装置の研究に励むが……。
 どうにもならない現実の中でもがく苦しみを、夫婦で乗り越えることはできるのか。
 夫婦とは、パートナーとは。恋とは、愛とは。
 夫婦の恋愛×SF

 白い。

 最初に視界に入ったのは、どこまでも真っ白な世界だった。ぼんやりとしたそれらに徐々に焦点が定まる。なんだろう。——病院の天井、か。
「先生、目を覚ましたようです!」
 女性の声がする。頭を動かそうとするが、酷く重い。吐き気と全身の気だるさとともに、抗えない眠気に襲われる。
 ぼんやりとした意識の中で、遠くから何人もの足音が近づいてきた。


 私が病室に駆け込むと、カズキは上半身を起こしていた。
「いま目を覚ましたところです。意識、はっきりとされていますよ」
 笑顔の看護師に頭を下げ、ベットにゆっくりと近寄る。
 心臓の音が部屋中に響いているような気がした。走ってきたせいで息があがり、ヒューヒューと音が漏れる。
 頭に包帯が巻かれた彼は、放心状態で宙を見ていた。
 どうしよう。これでだめだったら、私は、私はどうしたら。

「……カズキ」
 絞り出した私の声に、カズキはゆっくりこちらを向いた。能面のようなその顔を、お願い、私を見てと祈りながら見つめる。痩けた頬の上の窪んだ目が、ばちり、と私の目をとらえる。彼は薄い唇をゆっくりと開けて、かすれた声を出した。
「ユキ……?」

 ああ。
 全身の力が抜ける。床にぺたりと座り込んだ私を見つめて、カズキはもうまた、私の名前を呼んだ。1年ぶりに見る、優しい笑顔で。
「カズキ、私が分かる……?」
「分かるよ。ユキ、ずっと大変な思いをさせて、ごめん」
 頬に、ぼろぼろと涙が落ちる。穏やかでおおらかな、優しいカズキ。

 彼に抱きつくと、ゆっくりと私の腰に腕がまわる。温かい。体温が溶けて、ひとつの塊になっていくような安心感が胸に満ちていく。ずっとずっとこの温かさに飢えていたのだと気づいてしまうほど、この腕の中は私の居場所だった。

「お熱いのはなによりだけど、彼は術後の病人だからね」

 渋い声とともに、ごほん、とわざとらしい咳払いが背後で聞こえる。私が慌ててベットから飛び降りると、にやにやと笑う京本先生と赤い顔を背けている助手の宮下くんが立っていた。

「……すみません」
 ふてくされて謝る私に、「僕はなにも見ていないです」と宮下くんが口早に答える。からかいの言葉を重ねようとした京本先生は、私がごしごしと目を擦るのを見て口をつぐんだ。
「まあ、内診や検査があるから。もうしばらく外で待っていなさい」
 京本先生の言葉に頷くと、カズキが不安そうな顔でこちらを見る。試験用の見慣れないデバイスに囲まれた広い広い個室に取り残されるのは、たしかに怖いかもしれない。

「先生。やっぱり私、ここにいてもいいですか」
 振り向いた京本先生は呆れ顔で頭をかいた。無精髭が目立つ精悍な顔つきのこの人は、慣れないと威圧感が凄まじい。
「仕方ねえな……過保護なんじゃねえの」

 余計なことを言うなという念を込めて睨む。「怖い怖い、これだからさあ」とぶつぶつ文句を言いながら京本先生はベットに向かい合った。
 少しほっとしたような顔でカズキは質問に答えている。本当に、もとに戻ったんだ。椅子に深く座り込んで、ゆっくりと息をついた。

 体がだるいのか、たびたび眉をひそめながらも、穏やかに滞りなく会話しているカズキの様子をぼんやりと見る。安堵が、疲れ果てた体と頭に睡魔を連れてきた。泥に沈み込むように、意識が手を離れていく。
 あれ、寝ちまったよ、という京本先生の声が小さく聞こえる。ふわり、とかけられた毛布の感触は、きっと宮下くんからの親切だろう。

 このまま私たちの生活は取り返す。病魔の好きにはさせない。

 私の名前を呼ぶカズキの声を、何度も頭の中で反芻させる。幸せな声を、眠りに落ちるまで、何度も、何度も。


 まさか自分が。

 驚くほどみな、最初にそう言う。事故にあったとき、不幸に見舞われたとき、病気になったとき。カズキも始めは「まさか僕が」と笑っていた。私も、まさかカズキが、と一緒になって笑った。不幸はきっと、そこから始まっていたのだろう。

 休日の予定を繰り返し聞くようになった。
 会社帰り、夕ごはんを食べてきたか分からなくなった。
 義実家宛ての荷物の発送伝票を、ひとつも埋められなくなった。

 カズキはもともと、短期記憶が苦手だったし落ち着きがないときがあった。開けたドアを閉めない、脱いだ靴下を洗濯機に入れない、ゴミを捨てられない、整理整頓が下手、興味ないことに集中ができない。もともとの性質もあって、最近ちょっと抜けているなとは思いながらも「しっかりしてよ」と私は笑い、カズキは困った顔で申し訳なさそうに「ごめんごめん」と言っていたけれど、本当はずっとつらかったのかもしれない。

「ちょっと、起きて」
 朝の8時半に起こされたその日の私は、たしかとても不機嫌だった。九時に起きれば仕事に間に合うのに、どうして安眠を邪魔されたんだろうと思って。

「ネクタイが、結べなくて」

 冗談かと思った。朝からふざけるのはやめてよ、と起き上がった私が見たのは、いくつものネクタイが落ちている中、呆然とした顔で立ち尽くすカズキの姿だった。

「え、どういうこと?」
「わからない、自分でも全然分からないんだけど、ネクタイが結べなくて」
 はあ、と答えてもう一度時計を見る。事態を理解して眠気が飛んだ。
「え、いま始業時間だよね? ずっとここにいたの?」
 カズキはこくりと頷き、床に座り込んだ。

 頭が真っ白になる。まさか、いやでも。
 慌ててカズキの会社に電話をさせて自分も有給をとり、病院へ急いだ。検査結果が出るまで1週間。信仰心のかけらもない人生の中で、一番神様に祈った。

 祈り虚しく、結果はあっさりと告げられた。若年性アルツハイマー病です、と放った京本先生の顔を、忘れられない。
「治らない、ですよね」
 絶句している私の横で、カズキは静かに聞いた。
「今の技術だと、治すことはできません。進行を抑える薬はありますが、抑えるだけなのでゆっくりと進行します」

 治らない。
 その現実に、胸がずっしりと重くなっていく。このまま、カズキは忘れていくのだ。きっと、なにもかも。
 京本先生の口から放たれるひと通りの説明は、耳には入るのだが頭に入っていかなかった。うそだ。まさか、まさか私の夫が。

「ご家族の方にお話があります」
 顔をあげると、京本先生がこちらを向いていた。私か、と思い慌てて頷くと、カズキは黙って診療室を出て行った。
「先生、夫はまだ35歳です。認知症、なんて」
 意味のない言葉を口走ることしかできない私を、慣れたように京本先生は見つめた。

「30代で発症することも、稀ですがあることです。おつらいかとは思いますが、これからどうしていくのが良いか一緒に考えましょう」
 はい、と呟いて目を落とす。私の左手の薬指には、ピンクゴールドが光っていた。カズキがどうしてもこの色がいい、と言い張ってお揃いにした、結婚指輪。そんなことも、忘れてしまうのだろうか。
「ユキさん。提案がひとつあります」
 改まった顔で、京本先生は私に言った。

「京本・アブレイユ方式脳機能代替機器を試してみませんか」

「……はい?」
「通称、『伴奏者(パートナー)』という装置です。こちらを頭に埋め込むことで、記憶の外部化が可能になります。縮小していき、機能を果たさなくなっていく脳の代わりに記憶を外部のデータベースに溜め、AIがそれらの情報を処理してサポートするシステムです。情報のインプット・アウトプットは自分の思考の一部のようにスムーズに」

「ちょっと待ってください」
 思わず口を挟んだ私を、京本先生は怪訝そうに見た。
「あの、まだ私、夫が認知症って診断されたばかりで。気持ちの整理がついていないし、その、パートナー? というのも、なにを言っているのか全然……」

 京本先生は、失礼、と軽く頭を下げた。
「今日は時間もないと思うので、また後日話しましょう」
 帰り際、京本先生は私にぼそりと耳打ちをした。
「ユキさん、あなたにとっても興味深い技術のはず」

 こちらのことはなにもかも筒抜けか。反射で睨みつけると、おお怖い、と京本先生はおどけた仕草でわざとらしく震えてみせた。それからふと真顔になる。

「若年性アルツハイマー病の平均寿命は、10年から15年といわれています」
「え」
「よい返事を、期待していますよ」
 早足で診療室を出る。背筋がぞっと冷えているのに、耳は熱い。

 認知症。忘れていく。根治しない。
 平均寿命は、10年から15年。パートナー。

 うそだ、そんなわけないと目を背けていた現実が、この数分ですべて降りかかってきた。私がもっと早く気づいていればよかった。もっと早く病院に連れていけばよかった。もっとちゃんと話を聞いていれば。私が。私のせいで。
 ちょっと変だな、と思ってから診断まで、もう半年が過ぎていた。

「ユキ」
 診療室の前に、カズキは所在なさげに立っていた。私に気づき、駆け寄ってくる。その顔を見れば涙が出そうで、震える手を握りしめて俯いた。
 私がしっかりしなきゃ。私が、この人を守らなきゃ。いやでも、たしか説明ではまだ軽度だと言われた気がする。私のことも分かるし、悲観するのは早いんじゃないか。
 そんな私にカズキは心配そうに言った。

「ねえユキ、なんで病院にいるの。どこか悪いの?」


「すごい……こんなに思い出せるなんて」
「気分はどうですか」
「とても、よいです。先生、本当にありがとうございます」

 久々に、本当に久々に聞くカズキの弾んだ声が、病室に響いている。かけられていた毛布を退けて大きく伸びをした。身体中が軋んで骨の音が鳴る。

「おう、やっと起きたか」
 京本先生が振り向いた。その先に見える嬉しそうなカズキの顔は、まだ夢のようで信じられない。

「先生、手術はちゃんと成功したんですか」
「失礼だな、大丈夫だよ。お前が5時間も寝ていた間にテストも終わってるぞ」
「私、そんなに寝ていました?」
「このところ、ずっと負荷がかかってたんだろ」

 バツが悪そうに京本先生は目を逸らした。
「今日は仕事休みでいいから、ここで旦那の相手してやんな」
 いいんですか、と聞くと面倒そうに手を振り、京本先生は病室を後にする。宮下くんが「術後のデータも僕の方で取っているので、安心して今日はこちらにいてください」と小声で伝えてくれた。

 やっとふたりになれた。ベットに腰掛け、カズキの手をとる。
「調子はどう?」
 カズキはにこっと笑った。
「体はまだだるいし、頭も思いけど。気分がすごくいい。頭の中の、モヤが、晴れたみたいだ」
 そう、と答えて彼の顔にかかった前髪を払う。もとから痩せ気味の体型だったが、この半年でさらに痩せてしまった。

「少しずつでいいから、美味しいものを食べよう。運動もして、体力をつけようね」
「うん、一緒に食べよう。ユキの、好きなもの……は、焼肉、だよね」
 こんな些細なことでも嬉しい。私は何度も首をたてに振った。
「そうだよ。退院したら一緒に食べに行こう」
「うん。本当にすごいな、この……パートナー、は。まだうまく使いこなせないけれど、こんなになにかを思い出すのが、スムーズなのは、本当に久しぶりだ」
 興奮して話し続けるカズキにあいづちを打ちながら、パートナーがきちんと機能していることを確信した。

 パートナーとは。——脳外科医の京本先生と、脳神経学者のアブレイユのチームが共同で開発した京本・アブレイユ方式脳機能代替機器の通称である。脳にチップを埋め込むと、脳波によって外部化されている個人の記憶領域にアクセスすることができるようになる。そこにはチップをつけている間に見たもの・聞いたこと・感じたことなどが情報としてすべて収容されており、AIが必要な情報の受送信を適宜行う。

 さきほどの会話では、『ユキの好きな食べ物は?』と脳内で考えた際にAIが作動し、過去の情報から『ユキ』とされる人物がより多く、美味しそうに食べていたものを抽出して結果として『焼肉』という回答をカズキの脳に送っている。送られる情報は言葉優位だが、映像や画像での再現も可能である。本来ならば人が自分の脳で行っている記憶と記憶したものからのアウトプットを、外部化したデータベースとAIで行なっているという寸法だ。

「カズキならすぐに慣れるよ、電子機器の扱い得意だったでしょ」
「これ、そういう問題かなあ」
 軽口を叩き合いながら、穏やかな時間が過ぎていく。信じてはいたけれど、本当にこんなにうまくいくなんて思わなかった。
 カズキは、ぎゅっと手を握り返して不思議そうに言った。

「そういえば、僕の病気が発覚してからの、記憶もあるんだけど。……チップは今回の手術で、埋め込んだばかりでしょう、どうして?」
「早くカズキと話したくて。カズキと出会ってから今までのこと、私の手元にある限りの情報を事前に入れてもらってあるの。指輪をつくったときのことや結婚式のことも、思い出せるはずよ」

 なるほど、と感心したようにカズキは何度も頷く。よい思い出を中心に入れたことは、言わなくていいだろう。特に、病気が発覚してからのこの半年は地獄のようで、それを知ってほしくはなかった。

「指輪は、……目黒で、つくったね。……ピンクゴールドがいいって……僕が、決めたんだ」
「そうだよ。プラチナがいいって言うと思ってたから、びっくりしたの」
「……ピンクゴールドの方が、肌に馴染むでしょう」
 すんなりと出たその言葉に、私は少し言葉が詰まってしまう。
「カズキ、あのときも同じこと言ってた」
 たしかに、カズキの少し浅黒い手にピンクゴールドが意外にも馴染んでいた。——満足げに左手を空にかざす姿が脳裏に浮かぶ。

「え、じゃあ……記憶領域にあったのかな。でもいまのは、反射で出た感想な気もする」
「どうだろうね。でも、慣れたら、ほとんど変わらないくらいになるって先生が言ってたでしょ。リハビリしていこう、あとは新しい思い出を増やしていこう。これからはずっと消えないんだから」

 私はポケットから出した指輪を、カズキの左手の薬指にはめた。結婚式以来の所作が、少し照れくさい。カズキの目に、うっすらと涙が見える。

「ユキ……。ずっと、大変だったでしょう。僕がこんなことになって、たくさん迷惑をかけたね。本当にごめん」
 堪えていたものがぐっと込み上げて、私はカズキの左手に光るピンクゴールドをなぞった。
「あやまらないで。私なら大丈夫、こうして話ができるだけで本当に十分なの」

 ぽたり、と手の甲に水滴が垂れる。顔をあげるとカズキが泣いていた。
「なんで泣くのよ」
 笑いながら彼の涙を拭ううちに、私の目からもぼろぼろと涙がこぼれた。

 泣き笑いをしながら、私たちはそっと抱きしめ合う。久しぶりに会えた遠距離恋愛中の高校生カップルのように。


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