「ごめんね」が言えないじぶんに寄り添う
4連休2日目。
みなさん、いかがお過ごしですか?
なんか、おやすみの日の過ごし方って、わからないね。
休みだ!お天氣だ!
と言って、そとにでかけてばかりいても、疲れるよね~。
今日は、朝、おとなりの家の方に声をかけられて、ずっとしゃべってたんだけど、正直早く終わらないかなあ~と思ってた。
今日は隣町まで朝からヨガに行くことになっていた。
わたしは、めんどくさいなあ~と感じて冷めているじぶんがいることを感じつつ、“感じよい”じぶんでいようとしていた。
家に帰って、お隣と話してたと言うと、母に「ペラこいて。だから嫌なんだよ」と言われた。
なにを話したかなんてひとことも言ってないのに、家のことを話されたと思ったみたい。
わたしはその言葉がくそキライで、よくも娘をバカにできるな!と怒り心頭だった。
ガガガガガーーーーッと声を荒げて怒りをぶつけた。
母は一歩引いて、「うわ、その言い方。こわ」とまるでじぶんは無関係とでもいうかのように、ピシャリと言い放った。
この朝の出来事があって、ひさしぶりに怒りをあらわにして、しばらく胸がドキドキしていた。
ひとりになって、どうしてこれが起こったのだろうと冷静に考えてみた。
おとなりさんと話してるときから、じぶんのきもちや時間を尊重できずに相手に合わせてしまっていたことに、怒りと悔しさを感じていたこと。
そのことでじぶんに罪悪感、自責のきもちがあったからこそ、母の言動に過敏に反応してしまったんだなあって氣づいた。
母に言われてイヤなことをイヤだと伝えられたのはよかったと思う。
でも、そこまで言うことじゃなかったかな、強く言い過ぎたなとも思った。
母は、そんなケンカをしながらも、お弁当を用意して、「そっとしておいて」と言うわたしに、「9時過ぎたよ。もう行くんじゃないの?」と持ってきてくれた。
ありがたい。
ありがたいと思ってたはずだった。
なのに、どこか、“あたりまえ”みたいにも思っていたのかもしれない。
辛いことは、水のなかを浄める炭みたいに、いろんな不純物を吸い集めて、わたしの視界をクリアにして、澄んだ世界を見せてくれる役目をしてるんだなあと思った。
“あー、もうやっていけない”って思うことだって、こころはささくれだってるのに、街に香りのよいバラが咲いてるのを見つけたり、すれちがう高校生のさり氣ない視線になにか感じたり。
なんか、辛いときこそ世界はやさしく見えるものだから不思議なんだよね。
母に認められること、母の評価がイコールわたしの価値みたいになってしまっていることが一番のねっこ。
帰って来て、「お母さんが言ったことは怒ってるけど、れいも強く言い過ぎた」と伝えた。
「おたがいさまだね。れいももうちょっと家のこと考えてほしい」と言われたから、「だから家のこと言ったなんて言ってないじゃん」と返した。
“こういうふうにわかってほしい”と思うことがあると、そう捉えてもらえないときに悲しくなるし、相手がそう思うようにコントロールしてしまうところもある。
だから、母がわたしをどう思うかは、知らない!ことにする。
お好きにどうぞ!
わたしは、きっと“家族のことを想って行動できる、できた娘”でいたかったのだと思う。
でも、母に卒業証書をもらうのは諦めることにする。
家族にどう思われようと、ひとになんと言われようと、わたしは“毎日よくやってるで賞”をじぶんにあげることにする。
そして、以前怒りを表現した姉に、やっぱり“怖い”と言って、シャッターを下ろしたことを思った。
じぶんがされてみてはじめて、わたしがなぜこんなに怒っているかをわかってもらえない悲しさを感じた。
まるでわたしとは関係ないかのように、切り離されてしまう冷たさを感じた。
そして、姉にはじめて共感した。
“ごめんね”と思えた。
そしてやっぱり、仲直りとは美しいものだと思った。
だから、ケンカも美しい。
雨が降るから虹が出るように、ケンカをするから仲直りがあるのだから。
辛いことは、その先にあるほんとうの幸せにつながっているのだと思う。
辛い想いを経験しているからこそ、大事なひとに辛いことがあったときも寄り添えるのだと思う。
わたしは、そんなじぶんにとって大切なひとの辛いきもちをわかってあげられるひとになりたいと思った。
ううん、きっと、辛さをわかちあえるということは、“だれか”がわたしにとっての“大切なひと”になる瞬間なのかもしれない。
ヨガに向かう道すがら、そんなことをじぶんと対話していた。
おなかが痛くなってきたような氣がして、どうしようとも思った。
このまま体調をみて、休むということもできる。
わたしは、休みの日に家でジッとしてるっていうことが、苦手なのかな。
なんか、逃げてる氣がした。
なにから逃げているのかな?
やりたいこと、やるべきことがあるけれど、時間とエネルギーがないことを言い訳にしてやらないでいられた。
どうして逃げるのだろう?
エネルギーがないじぶんを受け入れたくないんだね。
そしてじぶんに対して、条件をつけて、“こんなじぶんはイヤだ”みたいなことをしていることに氣づいた。
ぜんぜんじぶんにやさしくなかったなと思った。
ターザンのように、太く逞しい愛に貫かれたいなあ。
今日、ヨガでまなかさんに「れいさんは、これからも海外に行きたいの?」って聞かれて、「はい!行きたいんです!」ってうれしそうに答えているじぶんがいて、なんでひとに聞かれることってこんなにうれしいんだろうと思った。
わたしはじぶんに、聞いてあげてないのかな?
じぶんが聞いても、どうせ叶えてくれないしって思ってるのかな。
そんなじぶんなんて、悲しいな。
このひとに言ったらなんでも叶えてくれる!のがじぶんでありたいと思った。
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