見出し画像

深く愛することが怖い


わたしが目指してたのは、パートナーができることじゃなかった。

結婚することでもなかった。

わたしは、ウソのないじぶんを生きたかったんだ。

じぶんのなかで氣づいたときに、立ち止まる勇氣。

“やりたい”をふるいにかけて、あえてやらない勇氣。

なにが怖いの?

恋に進むこと。

だれかを、深く愛すること。

怖いのは、はじめてのことだから。

経験したことがないことだから。

理性でジャッジしている今のほうが、安全だと思っている。

そこを越えてしまえば、“ジャッジ”ができなくなる。

“無条件”にひとを愛する世界を、わたしはまだ知らない。

だから、“ジャッジ”以外で、ひとをどう判断すればいいのか、ひととどういうふうに関わればいいのか、どんなふうに関係を築いていけばいいのか。

まったくの未経験、無知。

だから怖い。

未知の愛の世界に、わたしは怯えている。

そして、そこに“愛”なんてものがなかったら?

“信じて飛びこんだ”わたしが、“裏切られて傷つき、悲しむ”?

そんな“頭”で考えたシナリオを、恐れている。

未知への恐れ。

そしてじぶんの妄想が創り出した恐れ。

それは、どれも真実ではない。

恐れは、それを超えるくらいの“なにか”があれば乗り越えられる。

それは、ひとにとっては“わくわく”、“楽しみ”、“喜び”。

越えることにはわくわくや楽しみが伴うだろう。

そして、越えた先に初めて見える喜びがあるのだろう。

ジャッジの世界の覇者である、思考はそうはいかない。

そんなものはない、そこにあるのは恐れだけだと。

でも、恐れは実体のないものへの幻想だ。

恐れ自体が実体のないものだ。

愛は、頭のなかにはない。

現実に、生身のからだを動かして、こころで感じて、そうやってはじめてよろこびの実を五感で味わうことでしか、つかめないのかもしれない。




leiちゃんのれいでぃおチャンネル、あらためましてはじめました。

音声のほうでも、楽しんでくれたらうれしいな。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?