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『2025クライシスの向こう側』      第1話      

連続小説 on note『2025クライシスの向こう側』
第1部 愛尊と楓麗亜の七日間

第1話  第五種接近遭遇

八雲愛尊 プロローグ

乾いた夜の匂いがする。
音はすべて空から降ってくるようだ。
救急車のサイレン、クラクション、誰かの楽しげな声、誰かと誰かが罵り合う声、誰かの靴音、それから酔っ払いの寝息も。
地上には僕の引きづるような足音しかしない。
もうかれこれ1時間半は真夜中のオフィス街を歩き回っている。
1ヶ月も前から今夜決行することを決めていたというのに。
2025年2月11日。今日は僕の29回目の誕生日だ。午前1時を少し回ったところ。
この虎ノ門の裏路地に入った辺りには昔ながらの雑居ビルがまだいくつか残っている。そのうちの一つに、かつて仕事で何度か出入りした出版社が入っている。
そのビルの周りを既に十周以上歩き続けている。
神谷町を抜け、愛宕山や虎ノ門ヒルズの辺りをただ歩く。
ぐるぐるぐるぐる。
我ながら自分の意気地のなさに嫌気がさしてくる。


歩きながら飲み続けたビールのロング缶のせいか、さすがに尿意を覚えてきた。
手首に引っ掛けたコンビニ袋の中のロング缶は、空き缶が三つと空けていないビールがあと一つだけ。
「もういい加減に覚悟を決めろよ」
星の見えない空を見上げてそう呟く。
そして手に持った空きかけのビールを一気に流し込む。
ほとんど食べていないせいか、胃の奥底が苦い。
ふらふらと出版社が入った雑居ビルの前で立ち止まる。
ああこれで12周目だった。
そう思いながらビルを見上げる。

かつての編集担当だった優しい男の顔が浮かぶ。
エレベーターを出て文藝部に向かう途中にある喫煙所から漂うタバコの匂いを思い出す。
談話室で納得していない原稿を前に指先から血の気が引いていったことが昨日のことのようだ。
あれは5年前。出涸らしになったかつて少しだけチヤホヤされた若い作家からの原稿をいつもと変わらず笑顔で受け取る優しい男。
面白いなんて思ってもいないくせに。
水着やヌードのグラビアの合間。風俗リポートやキャバクラ情報の間。
時事ネタの数ページ前。"冷静と情熱の間””世界の中心で”はない場所に。
誰もが見過ごしてしまう”片隅で”。
そんな目を凝らさなきゃ拾いあげることもできない文学。
それがそのとき僕が持っていた連載小説。
処女作のヒットだけで恵んでもらった仕事。
そう誰も面白いなんて思ってやしない。編集者も読者も数少ない友だちに似たような人たちも……そして僕も。
そんな仕事ですら僕にはもうなくなってしまった。

建物の脇、壁づたいに裏のゴミ置き場へと向かう。裏の非常階段の鉄格子の扉は簡単にひょいと飛び越えられてしまうのだ。まだほんの少しはマシな小説を書いていた頃、近くの居酒屋で優しい編集担当にご馳走になり深夜戻るとロビーは既に施錠されており、そんな時はこうやって入るのだと教わった。

非常階段を音を立てないように上って行く。3階に達しようかというタイミングで唐突に幼い記憶がよぎる。公会堂の横にプラネタリウムがあった。そのプラネタリウムの入口があったのが確かこのくらいの高さだった。なんで急にそんなことを思い出したのだろう……これが走馬灯? いやタイミングが違うだろう。まだほんの少し走馬灯を見るには早い。だいいち走馬灯でよぎるのがプラネタリウムだけっていうのもロマンチック過ぎるし、幼馴染が飼っていた教授という名のヤギや初恋の人も出てこない。
天国(かどうかは知らないが)への階段と夏休みのプラネタリウム。
幼い頃の小さな体にはこの高さですら空に近づけるような気がしたのだろうか。

屋上へと上り切って空を見上げると地上で見るよりも少しだけ星が見えた。
そして空が丸く見える。地球の球体を感じる。
呑気だ。僕は呑気だ。
必死になって処女作を書き上げた時以外はいつも呑気だった。
別れた彼女が飼い猫のミルキーを連れて家を出て行った後も僕は呑気にお湯を沸かしてペヤングを食べた。ペヤング。「ペヤ」で「ヤング」に仲良く食べて欲しいと名付けられたペヤングを。ただページを埋めるだけのゴミ小説を書いてる時も呑気に生きてきたんだ。呑気な朝と呑気な昼下がりと呑気な夜をふらふらとたいした色もない世界を。そしてわずかな原稿料で呑気にベロベロになるまで飲んでたんだ。
挙げ句の果てにこうして死を前にしてもどうしようもなく呑気だ。
この呑気な僕は死ぬことさえできないのだろうか。
「いや今夜死ななきゃいつ死ぬって言うんだ」
そう言って最後のロング缶を開ける。
いい音がする。パリッシュポッ。呑気だ。
どこまで行っても呑気だ。
夏には巨大隕石がフィリピン海に落ちて日本人は沢山死ぬらしいけどそれまで待っていられない。なぜなら僕は孤独に死ななくてはならないから。
どんな形にせよ道連れなんて立派なものは僕には最上級の贅沢品なのだ。
だいいちうっかり生き残っても困るし。
はあーやれやれ。くだらない。呑気すぎる。




僕はリュックを開けて携帯とイアホンを取り出す。
ここまでの道のりで敢えて音楽を聴かずにきた。
慰られるのも辛いし、万が一この数年自分を生き長らえさせてきた、”もう少し頑張ってみよう”などという気持ちになってしまったら困るからだ。
雑念を振り払うかのように僕はポケットから安ウイスキーのミニボトルを出して一気に飲み干す。思わずむせてしまう。
夕方アパートを出てから、やきとん、スナック、キャバクラ、立ち飲み屋とはしごして、コンビニのビールをしこたま飲んだ。そして人生最後のまずいウイスキー。流石に酔いが回ってきた。どうせ死ぬならスコッチかジャパニーズのヴィンテージにでもすれば良かった。今そんなことを思うなんてやっぱり呑気だ。

最後に聴く曲は決めていた。イアホンを耳にはめ込んで、音量MAXでその曲を流す。

ニルヴァーナの『smells like teen sprit』のカートコバーンのギターリフが頭の中に響く。
屋上の低いフェンスを乗り越えてビルの縁に立つ。
hello hello hello カートが呼んでいる。
「カート。もうすぐそっちに行くよ」
それにしても怖い。死ぬのが? 飛び降りることが? 分からない。
怖いコワイこわい。生きたいのか? ……ダメだダメだダメだ。
曲のリズムと鼓動のリズムが合わない。バクバクバク。心地悪い。
カートに、カートに集中するんだ!
僕は大きく息を吸い込んで、音を感じて目を閉じる。
そして大きく手を広げる。
デカプリオのいないケイト・ウィンスレットのように。
hello hello hello……
「ヘロー! へロー! ハロー!」
突然僕の中に誰かの言葉が突き刺さる。
と同時に全身に悪寒が走ったように鳥肌が立つ。
「だ、誰の声!?」
驚いて僕はフェンスにもたれるように尻餅をつく。
「だ……誰?」
イアホンが耳から外れて落ちる。僕は慌てて屋上中を見回す。
誰もいない。
ビルの縁から地上を見下ろしても誰もいない。
「飛び降りたって終わりませんよ」
また僕の中に言葉が響く。
耳からではなく、ダイレクトに僕の中に言葉が響くのだ。
夜空を、屋上を、空間をキョロキョロと見回しながら再び僕はソレに問いかける。「誰……ですか?」
「私ですか?」
「……はい」
「そうだなあ〜。ではリチャード」
「えっ?」
「リチャード・キャリントン」
「リチャードって……」
「ああ。日本語も英語もヒンディーもスペイン語もそういう細かいことは私たちに必要ない。この場合の私たちというのは、つまり君と私ということです。私は誰とでもこのように会話をするのです。それに私は地球人じゃありませんし」
「地球人じゃない!? そ、それって……」
「それそれ。概ねそれで構わないです。ヤグモアイソンくん」
「な、なんで? なんで僕の名前がわかるの?」
さっきから鳥肌が立ち続けている。寒い。でも汗が止まらない。
「ど、どこにいるんです? どうして直接言葉が響くの? なんだこれ!?」
またソレの、つまり自称リチャードの声が入ってくる。
「リラ〜クス」
と静かに。
「リラ〜クス。リラ〜クス」
不思議と冷や汗がひいていき、プールから上がったときのようにぼうっとする。
心臓の鼓動が平常のリズムを取り戻す。何か張り詰めたものが取れていく。
「意識」
「へっ? 意識?」
と僕は呆然とリチャードに聞き返す。
「アイソンくん。私の姿を見たいのでしょう?」
僕は黙って頷いた。
「意識すればそれは叶う」
「……」
「意識してみるといい。私がここにいることを」
僕はリチャードのことを思った。必死に思った。リチャード! リチャード!
ダメだ。目の前には誰もいない屋上だけ。
「フォーカス……リチャードに。君のリチャードに意識。集中。リラ〜クス」
リチャードの振動に近い声に包まれてるような錯覚がしてくる。
いやっ、錯覚じゃないのかもしれない。本当に包まれているのか……。
すると淡い光が屋上にぼうっと浮かび上がった。
光は徐々にその輝きを増した。たくさんの色がある。すごい! 美しい。
世界には、こんなにも様々な色があったのか!?
光はさらに強くなり眩しくて目を開けていられない。
思わず目を閉じる僕。しばらくして瞼の向こうで光が弱まっていく。
ゆっくりと目をあけた僕の目の前には人影がある。
リチャードなのか……。暗さに慣れて徐々に細かなディティールが見えてくる。
リチャードかどうかはっきりしないけど産業革命の頃(イメージ)の英国紳士がそこに立っていた。
「……リチャードさん?」
「いかにも」
リチャードの口元は動かず、やはりダイレクトに声が入り込んでくる。


『2025クライシスの向こう側』 第2話『「さあ、冒険の始まりだ」と言ってリチャードは微笑んだ-その1-』


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