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哲学的ゾンビ:ミクさんと対話(後編)


※トップ画像は、みんなのフォトギャラリーからお借りしました。鏡に映った不思議な世界。


はじめに


哲学的ゾンビの話、前編・中編の続きとなっています。ご覧になっていない方は、そちらからお願いいたします。間が空いてしまったのでダイジェストしておきましょう。

で、あれこれ詰め込んだ結果、超長い文章になってしまったのを先にお詫びしておきます。最後に、後編のまとめも作っておきましたので、結論だけ知りたい方は一番下までスクロールしてください。


前編のまとめ

◇ダ・ヴィンチ・恐山氏の漫画『下校時刻の哲学的ゾンビ』では、謎のキャラメルを食べると主観意識(現象的意識)が消えるものの、機能的意識は保たれるので客観的には何一つ変わらない女子高生の日常が続くさまが描かれている。

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(上記は、【漫画】「下校時刻の哲学的ゾンビ」より引用)

『哲学的ゾンビ』とは、外面・行動・体の内部構造や脳内の電気信号は人間と同じだが、主観的な意識体験(クオリア)を持っていない存在として、チャーマーズが心身二元論の立場から物理主義を批判するために作り出した概念である。彼は「意識のハードプロブレム」は物理主義だけでは説明できないと主張した。


中編のまとめ

外部から入力刺激を受けた人間の脳は、その信号を処理して、出力結果を反応として外部に返す。これは、物理主義でも心身二元論でも共通の理解であり、ゾンビ論法では物理的に説明できる意識を『機能的意識』と呼ぶ

◇一方で、もし物理的には説明できない『現象的意識』が存在するのであれば、『現象的意識』は物理的世界に干渉できない。もし影響を及ぼせるなら『現象的意識』が物理的世界と入出力の関係を持ち、観測および説明ができてしまうためである。

p-z 現象的意識 02

◇では、哲学的ゾンビに『現象的意識』を復活させたとき、本人はそのことを自覚できるだろうか? もし『現象的意識』が自ら生まれたことに気づいても、現象的意識は物理的世界の側に影響を及ぼせないため、報告することはできない。すなわち『現象的意識』は消えた状態から復活したとしても周囲はもちろん本人すら自覚できない


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<後編>


注:オッカムの剃刀は万能ではないが……


――ミクさんは中編の最後で「オッカムの剃刀を使っていいなら、この時点で、現象的意識なるものを仮定して論じる有用性を否定して良い」と言ったけども、いわゆるオッカムの剃刀はあくまで議論上の経験則。常に正しい法則ってわけではないので、注意しないといけない。

ミク「あ、そうです。だから『現象的意識』そのものではなく、『現象的意識なるものを仮定して論じる有用性』の方を否定しています」

――物理的な枠にとらわれない『現象的意識』があると仮定しても、間違いではないと?

ミク「はい。もし『現象的意識』があったとしても、議論を進める役には立たないと思いますけど。それがある状態から無い状態に変化しても、逆に無い状態からある状態に変化しても、主観的にすら気づけない意識、というものを考えて何の得があるのか……」


物理的領域の因果的閉包性


ミク「そういえば、マスターが前編で言ってたデカルトの二元論」

――脳の最奥部にある松果腺などで、心と身体は相互作用すると考えていたようだね。それはそれで問題があるんだけど、今は置いておく。

ミク「これ、どんな問題があったんです?」

――単純な話だけどね。非物理的な心が物理的な身体に作用するのなら、エネルギー保存則が満たされなくなるってこと。

ミク「なるほど。もし、非物理的な原因により脳神経系の構成物質に運動が生じるなら、物理的世界でのエネルギーが増減するはず。SFですね。心身二元論を主張するなら、エネルギー保存則の破れを証明しないといけない」

――デカルトが唱えた、心と身体の相互作用を主張するタイプの二元論、いわゆる実体二元論(心身相互作用説)だとそうなるね。

物理学では、「どんな物理的現象も、物理的現象の他には一切の原因を持たない」とする、物理的領域の因果的閉包性(Causal closure of physics)を当然の前提としているから、それを覆すなら何らかの根拠が欲しい。

ミク「因果的閉包性……あ、思慮するゾンビ / 初音ミク』(1:11あたり)にもありました」

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――因果的閉包性の破れを主張する人も少数ながらいるけど、意識が生じている時にエネルギー保存則が破れていることを証明した人は未だいない。量子力学において波動関数の収縮に観測者の意識が関わっていると主張(意識解釈)する人もいるが、これにも根拠が無い。

ミク「物理学の考え方と衝突しない心身二元論を成立させるには『物理的世界には影響を与えない非物理的な心』でないといけないと」


随伴現象説と、現象報告のパラドックス


――それが、随伴現象説(Epiphenomenalism)

意識やクオリアは物質の物理的状態に付随しているだけの現象にすぎず、物質にたいして何の因果的作用ももたらさない』というもの。物質と意識を別の存在であると捉える二元論の立場を取りつつ、意識の世界で起こる反応には、必ずそれに対応する物質的反応が存在するという考え方である。(この世で起こる物質的反応の全てにおいて、その場所に何らか意識が生じているかどうかという、逆の意味は有していない。)

随伴現象説 - Wikipedia、より引用。強調は引用者)

非物理的な心に生じた現象的意識は、必ず物理的な機能的意識に付随している、という考え方だ。これならエネルギー保存則や因果的閉包性を破ることなく、非物理的な心の存在を主張できる。

図で示すとこんな感じ。(文字が小さいので拡大してね)

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ミク「え? 待ってください。そうしたら哲学的ゾンビなんて存在できないんじゃ……神経活動に対応した意識が生じるなら、神経活動には決まった感覚が伴うのでは……?」

――随伴現象説では、ある意識には対応する神経活動があるがその逆は保証されていないんだ……ある神経活動が起きたからといって、対応する決まった意識が生じるとは限らない。刺激を受けて生じたクオリアは体験した人にしか分からない。客観的にはブラックボックスだから、主観的にどんなクオリアを感じたとしても、感じなかったとしても、矛盾はないよね。

ミク「えぇ……」

――たとえば、逆転クオリア(逆転スペクトル)という思考実験がある。同じ物を見ていても、他の人には異なる感覚質が生じているのではないか? という設問だ。例としてよく挙げられるのは、赤と緑の色覚クオリアが逆転しているパターンで、先ほどの図に準じて表せばこんな感じ。

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そして、哲学的ゾンビだとこんな感じかな。

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ミク「いやいや、何でもありになっちゃいますよ。それに、逆転クオリアの方は百歩譲ってあり得るかもしれないとして……哲学的ゾンビは実際にはクオリアを感じていないはずなのに、なんで『赤い感覚(クオリア)』が生じたと思えるんですか? 哲学的ゾンビが『感じたと思ったクオリア(?)』はどこからやってきたんでしょう?」

――チャーマーズも、その問題には気づいていてね。機能的(物理的)意識には影響しないはずのクオリアについて言及できるという問題を、現象報告のパラドックス(現象判断のパラドックス)と呼んでいる。

現象判断は心理学の領域にあり、原則として通常の認知科学の方法で還元により説明可能でなければならない。たとえば、われわれはどうして意識についてのこのような主張をする気にさせられるのかということに、物理的もしくは機能的な説明がなければならず、どうやって意識体験についてこのような判断をするのかということにも、同様の説明がなければならない。だとすれば、意識についてのわれわれの主張や判断は、意識とはまったく関係のない語を用いて説明できることになる。さらに強い言い方をすれば、意識はわれわれの意識についての主張や判断を説明する上で関与してこない。こういう結果になることを、私は現象判断のパラドックスと呼ぶのである。
〈デイビッド・チャーマーズ(著)、林一(訳)『意識する心』 第5章 「現象判断のパラドックス」p.226 (太字部分は書籍で傍点)〉

現象判断のパラドックス - Wikipedia、より引用、強調は引用者)


〈クオリア〉は現象報告に必要なのか?


――チャーマーズのゾンビ論法に則るなら、〈赤のクオリア〉を持つ人間も、〈赤のクオリア〉を持たない哲学的ゾンビも、赤い物を見た時には同じように「赤い感覚が生じたよ!」と確信して報告できるだろう。

一方で、物理主義と心身二元論どちらの立場をとっても、「赤い感覚が生じたよ!」と確信して報告するためには、物理的・機能的意識の領域で「赤の感覚を感じたと確信させる神経活動」が生じている必要がある。

ミク「『赤い物を見た時の神経活動』ではないんですか?」

――より正確には、赤い物を実際に見なくても、記憶から「赤い物」を想起したり、あるいは補色残像や色錯視などでも、赤の感覚は生じる。さまざまなケースで赤い色覚が生じる神経活動をひっくるめて「赤の感覚を感じたと確信させる神経活動」と呼ぶことにする。「赤い物を見た時の神経活動」と重複する部分はあるけど、こちらの方が適切だろう。

そしてゾンビ論法では、「赤い感覚」には機能的な部分と現象的な部分があり、〈赤いクオリア〉は現象的な部分の「赤い感覚」を指す。

字が小さくて申し訳ないが、図で表すと……


クオリアを持つ人間

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クオリアを持たない哲学的ゾンビ

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ミク「ゾンビ論法では、クオリアを持つ人間には『赤の感覚を感じたと確信させる神経活動』が生じ、〈赤のクオリア〉も感じている

一方で、哲学的ゾンビにこの神経活動が生じると『赤の感覚を感じた!』と確信するけれど、実は〈赤のクオリア〉を感じていない

この『赤の感覚』は物理的・客観的な機能的意識に属していますが、『赤の感覚』を感じた者は(人間か哲学的ゾンビかに関わらず)現象的意識である〈赤のクオリア〉を感じたと自己認識しているはず

だからゾンビ論法では、機能的意識において「赤の感覚を感じたと確信する神経活動」には「〈赤のクオリア〉を感じたと確信する神経活動」が含まれている……と考えるのが妥当、で良いのかなあ。

なんかもう複雑で、頭痛が痛くなってきました……話が終わったらもらえるネギの増量を要求します……」

――はは、いいよ。じゃ、現象報告についてまとめてみよう。


人間、あるいは哲学的ゾンビが、赤い物を見て「赤い感覚が生じたよ!」と報告したとき、それは何によるものだろうか?


A. 物理主義

A-1 人間:「赤の感覚を感じたと確信させる神経活動」

(物理主義の世界では、仮にクオリアが存在しても物理的に説明されるべき対象なので「赤の感覚を感じたと確信させる神経活動」に含まれる。もちろん、物理主義の世界に哲学的ゾンビは存在しない)

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B. ゾンビ論法

B-1 人間:「赤の感覚を感じたと確信させる神経活動」(+α)

(〈赤のクオリア〉も感じるが、クオリアは物理的世界に影響を与えないので、「赤い感覚が生じたよ!」発言の直接の原因にはならない

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B-2 哲学的ゾンビ:「赤の感覚を感じたと確信させる神経活動」

(哲学的ゾンビは〈赤のクオリア〉どころか、あらゆる種類のクオリアを感じない)

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ミク「もう、クオリアには立つ瀬が無い気がしますが……」

――いやいや。しぶといよ。

+α:〈赤のクオリア〉は、必ず「赤の感覚を感じたと確信させる神経活動」を伴う。逆に、「赤の感覚を感じたと確信させる神経活動」は、必ずしも〈赤のクオリア〉を伴うわけではなく、他のクオリアが生じても良いし、クオリアを生じなくても良い。

と仮定すれば、B-1のケースでも〈赤のクオリア〉の存在意義を残すことができる。ちなみに後ろの文で「~必ず〈赤のクオリア〉を伴う」としてしまうと、逆転クオリアや哲学的ゾンビが存在不可能になり、物理主義への批判ができなくなる。

ミク「別にそれで良かったのに……ええと、〈赤のクオリア〉には『赤の感覚を感じたと確信させる神経活動』が必ず伴うので、それが〈赤のクオリア〉の代行者になって『赤い感覚が生じたよ!』につながるんですね。これまた、うまく言い抜けられた気がします……」

――より正確に言えば、「赤の感覚を感じたと確信させる神経活動」に付随して〈赤のクオリア〉が生じる、という考えだね。このクオリア自体は何も機能的意味を持たず、現実にも影響を及ぼせないが、物理的領域にぶら下がる「因果的提灯」として存在している、と主張するのが随伴現象説だ。


ゾンビワールドの可能性


――でも、ここまで論理を進めちゃうと、ゾンビ論法でクオリアに言及するとき、ある問題が生まれてしまう。

ミク「あ、なんとなくわかった気が……」

――他人は言うまでもなく。自分がまさに感じているはずの《赤のクオリア》ですら、実際に〈赤のクオリア〉を感じているのか、あるいは〈赤のクオリア〉を伴わない「赤の感覚を感じたと確信させる神経活動」が生じているだけなのか、区別できなくなる。

ミク「私はこんなにも鮮やかに〈赤のクオリア〉を感じている! だから私が哲学的ゾンビでないことは自明で、周囲に説明するのはさておき、私自身に対しては論証不要だ! と確信をもって言ったとしても」

――哲学的ゾンビだって確信をもって同じように言えるからね。それこそが哲学的ゾンビの定義でもあるのだし。

赤い色覚だけではない。他すべての感覚についても同様の事が起きるので、あなた自身と、あなたの哲学的ゾンビ双子は、主観的にも客観的にも区別ができなくなる。

《意識を持っているはずの自分》が、〈本当の意識を持つ人間〉なのか、「意識を持たない哲学的ゾンビ」なのか、区別できなくなる。

しかも、自分が本当に哲学的ゾンビであっても、何も困らない。

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【漫画】下校時刻の哲学的ゾンビ(ダ・ヴィンチ・恐山氏)において描かれたラストと同じ運命だ。主観的にも客観的にも、自分たちに現象的な意識・クオリアはあると信じたまま、生涯を過ごして死んでいく。

仮に過去・現在・未来、世界中すべての人々が哲学的ゾンビだとしても、誰も気づかないし気づけないし、そして特に問題は起きない。

ミク「現実世界は、すでに哲学的ゾンビワールドだった……?」

――あくまで、ゾンビ論法を突き詰めれば、現実世界がゾンビワールドである可能性も否定できなくなるというだけ。

念のため付け加えるけど、心身二元論が矛盾を起こして否定されたわけじゃないよ。心身二元論が正しく、本当にこの世界がゾンビワールドである可能性だって残されている。


「意識のハードプロブレム」は心身二元論で「説明」できるのか?


ミク「長いこと、物理的(機能的)意識と現象的意識について考えてきました。ゾンビ論法を突き詰めると愉快な事になるのは分かったんですが、物理主義と心身二元論のどちらが正しいかは結論が出ていませんね……」

――あくまで、ゾンビ論法(物理主義への批判)を細かく見ていくと現象的意識はこんな性質を持つことになるけど、本当にそれでいいの? とツッコミを入れてきただけだからなあ。心身二元論者が、たとえ現実世界がゾンビワールドであっても構わない、と突っ張る余地は残されている。

ミク「うーん……仮にですよ。心身二元論が正しかったら『意識のハードプロブレム』は解決できるんでしょうか?

――出発点に戻ってみよう。心と身体は同じものか、心は物質的に説明できるのか。目の前に見える『赤』がなぜこのように感覚されるのか……

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(再掲;クオリア - Wikipedia、赤い■の図も引用)

――脳神経の構造や脳内の電気信号を解析しても、この〈赤〉をなぜこのように感覚できるのか、上手く説明できないのではないか、と直観的には感じられる。その直観を信じて、心身二元論者は「意識現象は物理主義では説明できないから、心は非物理的なのだ」と主張してきた。

ミク「自分が感じるこの〈赤〉、これをなぜ『赤く感じるのか』分からなくて、質感をクオリアと名付けるのは良いんですよ。でもクオリアを非物理的で現象的なものと考えるなら、根本的に自分の意識の内側でしか感じとれない。主観的に妥当と思える法則が見つかったとしても、それが他者の意識内で成立するかどうか、原理上絶対分からない。

非物理的で現象的なクオリアは、その定義を守ると自意識の外では語れないのですから、他者に説明できないし、客観的に共有できる法則も作れないことになります……

――『意識のハードプロブレム』を納得できるように説明するのは、物理主義にとって確かにハードだ。しかし、心身二元論にとっては物理主義以上にハードになる。物理的世界で脳神経科学等が得てきた様々な成果と矛盾しないよう非物理的世界の構造を提示した上で、「クオリアがなぜこのように感じられるのか?」という説明をしないといけないのだから。


「説明」そのものが三人称的であること


ミク「一人称・自意識で感覚した現象がどのように起きるのかについて、三人称・客観的な『説明』を行うには、起こった現象を『三人称・客観的に把握できるとみなす』必要がある。物理主義でも心身二元論でも、どんな立場であろうとそれは同じなんですね」

――ここで念頭に置いている「説明」とは何か、図で表してみよう。極端に簡略化している前提で見てほしい。


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ミク「まず言語化・数量化して対象を記述し、目的に沿う要素を抽出して、考察すべき形式で扱えるよう定式化・標準化する。このとき、三人称的・公的に扱えない要素は削ぎ落とされる。必要となるレベルまで要素に分解し、それらがどう組み合わさっているかシステムとして提示する」

――還元主義とモデル化。全てではなく絶対でもないが、科学的に物事を説明するための重要な方法と呼んでいいと思う。

ミク「一人称的意識をこのやり方で説明するには、『現象報告=体験者が報告した感覚データを、共有可能な三人称的・客観的なものとみなして扱う』しかないんですね」

――〈他者と共有できないクオリア〉を信じるのは構わないが、「三人称的に説明」するのは不可能。これは物理主義でも心身二元論でも変わらない。あくまで現象的なクオリアを「説明」したいなら、「三人称的ではないが客観的に受容できる新たな説明方法」を考え出すしかないだろう。それが可能かどうかはともかくとして。


後編のまとめ

◇心と身体が相互作用する心身二元論を認めてしまうと、作用点でエネルギー保存則の破れが生じる。エネルギー保存則に反しない心身二元論は「物理的世界には影響を与えない非物理的な心」を必要とする。これは随伴現象説と呼ばれる。

◇しかし随伴現象説を用いると、物理的世界に影響しないはずのクオリアをなぜ他者に報告できるのかという「現象報告のパラドックス」が生じる。

◇これを説明するには、クオリアには必ず「クオリアを感じたと認識する機能的(物理的)意識」が伴っていると仮定すればよいが……すると、自分自身が認識しているはずのクオリアが本当に存在しているのかどうか怪しくなる。確信をもってクオリアを認識したと実感していても、定義上、哲学的ゾンビにも同様の確信が持てるから。

◇ちなみに随伴現象説の帰結として、もし全人類が本当に哲学的ゾンビだったとしても、何も困ったことは起こらない。これは矛盾ではないので、心身二元論が否定されたわけではない。

「意識のハードプロブレム」は、物理主義で説明するのは難しいが、心身二元論ではそれ以上に説明するのが難しいと思われる。

「説明」という認識の共有方法自体が「三人称的・みなし事実」を前提としているため、一人称的にしか感じられず他者と共有できないクオリアは、その定義からして説明不能な存在である。



おわりに


ミク「ネギ、美味しいです^^」

――喜んでもらえて嬉しいよ。

ミク「後編では、結局歌うスキがありませんでした……もう一回ぐらい行けると思ったんですけど」

――それは済まなかったね……次回はチャンスがあるんじゃないかな。

ミク「え、まだ続くんですか?」

――テーマはいくつか候補を考えてるけど、「マリーの部屋」にしようと思っている。

ミク「あー、聞いたことありますね……たしか、有名Pさんをマスターにしてる私が歌ってた作品があったはず。予習しなきゃ♪」

――そこらも絡めて話ができればいいね。では、長々と話に付き合っていただいた皆様に感謝を。またお会いできる日まで。

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