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僕の好きなクリエータ018 マルセルジュシャン

逆襲のクリエータその3 マルセルジュシャン

反抗の芸術家をまた一人ご紹介。マルセルディシャンこの人です。
個人的にはできれば、出会ってもお近づきになりたくない。
きっとこの人ほど付き合いづらい人間はいないのではないかと想像してしまうのだった。
僕にそういうことを思わせるのはどういう理由かというと、彼の作品があまりにもヘソの曲がった、皮肉屋の、反抗的な、偏屈な、人を馬鹿にしたような。ああ言えばこう言う的な芸術作品だからだ。


もともとこの人は裕福な金持ちの御曹司で、お金に困ったことなんてない人で、有名になりたいとか、お金が欲しくて芸術家になった人ではない。


そういう意味では、生粋な芸術家である。そのくせ、芸術活動もほどほどに芸術なんてどっちでもいいと言わんばかりにチェスばっかりやってた人である。
きっと、芸術活動をやっていたら訳のわからん連中がデュシャンの芸術に対して好き勝手なことを言うので腹が立ってしょうがなかったんじゃないかと思う。


ろくに芸術活動をやっていなかった時期もあったのだけど、断筆運動やってたんだろうか?
だが彼の作品は、20世紀の現代芸術の発端であると言われるほど衝撃的な作品を残した。
なぜに衝撃的で、彼の芸術は一体なんなのかと無謀にも僕の思いを書いてみたい。

マルセルディシャンの芸術の評価をああだこうだと解説した書物はたくさんあるにはあるのだけど、僕的にはよくわからない。
それもそのはずで、彼の作品は一つの解説で事足りる芸術ではきっとないのだ。 もし芸術評論家がディシャン芸術はこうだ。とわかりやすく解説してしまったら?
解説が終わった時にその人の芸術評論家としての地位も名誉も何もかもが終わってしまうかもしれないのだ。
それほど、彼の芸術を一方方向で評論することは危険なことなんだと僕は思う。
だから、著名な芸術評論家は彼の芸術作品の解説の中核に触れていない。ディシャンの時代にこれこれこんなことがあった。あとはあなたが考えてください。
と締めくくって終わりみたいな書物ばっかりである。僕はこういうある芸術運動があって、あとはご想像にお任せしますみたいな解説にはちょっと納得がいかない。

んで、僕は有名でも、地位があるわけでもないわけで。ディシャンの評論をはっきりと個人的に言ってしまっても失うものは何もないから、ディシャンの芸術は結局こういう事だと言い切ってやろうと思ってこれを書いている。

とにかく、彼の芸術は理屈っぽい。それは間違いないのだ。

古典芸術と現代芸術

芸術には乱暴に大きく分けて二通りある、それは、古典的な芸術と現代的な芸術である。この二つがどこでどう線引きされるのか?
古典的な芸術とは作家が作家の意図を盛り込んだ作品であり、それを見るものに意図通りの問題を投げかける芸術と乱暴に一応定義してみよう。

たとえば、綺麗な花があったら、その美しさを他人にも感じてもらおうと芸術家が思い、現実よりももっと綺麗に描こうとする。その絵を見る傍観者は、(まあ、綺麗 と感動する)といったそんな感じの芸術。


一方、現代的な芸術とは見るものにその意味を任せてしまう芸術である。見るものが勝手にああだこうだと考えてしまう。そういう人の思考を触発させたり、見るものに考える刺激になっている芸術。

てなかんじの、ふた通りである。後者は岡本太郎がよく言っていた 『なんだこれは!』という感じ。松田優作の『なんじゃこりゃ』もこんな感じか?

デュシャンの芸術は後者 しかも、この二つの芸術に歴史上初めて概念的に境界線を引いた。それがデュシャンの作品である。
彼の作品の衝撃性というものはこの二つの芸術にこのように境界線を引き、以後現代アートと呼ばれるようになった事だと言える。かな?

コンセプチュアルアートの登場

さて、ディシャンの作品はコンセプチュアルアートと呼ばれる。意味は、作品自体に価値はなく、問題はその概念である という意味 実際のところデュシャンのレディメイドという一連の作品はガラクタと勘違いされて、捨てられたり無くされたりしている。

今では残っているのはその模造品だったり、別の工業製品だったりする。模造品であってもその価値は変わらない。これが今までの古典的芸術とは全く違う点だ。扉の写真も美術館で撮ったものだろうけど、模造品です。

そしてデュシャンの作品は反芸術とも言われる。つまり、反芸術とは芸術を否定した芸術であるという意味。芸術を否定しているのに、芸術であるというのもおかしな話だがデュシャンの作品はこの様に合わせ鏡のような堂々巡りの矛盾や皮肉に満ちている。『この世に絶対なんて言葉は絶対無いんだ!』というパラドックスみたいな感じ。

ディシャンの作品解説

レディメイドという一連の作品を解説しよう レディメイドとは何か?僕は最初レディ=女性の メイド=家政婦 みたいな(笑)メイド喫茶のようなイメージ?と本気で思ったが、全然違います。(笑)

冗談はさておき。オーダーメイドという言葉がありますね あつらえたものという意味。

ディシャン以前の芸術とは全てがオーダーメイド 一点限りのあつらえたものであったはずです。
ところが、ここで疑問が起こるのは、あつらえたもの、だけが芸術だろうか?芸術の定義はなんだろうか?権威のある評論家や芸術家が、これは(芸術だ)といえば芸術ですか?という疑問の投げかけ。


この素人みたいな『疑問の投げかけ』がデュシャンのレディメイドである。レディメイドとは備え付けの、すでにあるもの。みたいな意味ですね。

ところが、実際のところ、このレディメイドの作品を発表した時にはデュシャンはかなりの芸術家としては権威者であった。
だから、そなえつけの。=つまり、その辺に転がっている大量生産された産業製品で作品を作り、私のような権威者が産業製品で芸術作品を作ればそれは芸術ですか?という疑問を投げかけている。


飛行機のプロペラを見たまえ!なんと美しいなんと素晴らしい形か!そう思わないか?君!などと、記者のインタビューにわざとからかいを言ってみる。
一例ではこんな作品がある
椅子の上に自転車の車輪をくっつけた 椅子は車輪をくっつけたので、もう座るものではなくなってしまっていて、自転車の車輪は椅子の上につけられたことによってなんの役にも立たないものになっている
役に立たないものと役に立たないもの同士をくっつけた。すると、本来モノの持っていた工業製品の目的が無意味なものになり、別の意味合いを持つようになった。
彼は世間に問いかける
そういうものを一見にしてガラクタに見えるものを、権威者の俺が(レディメイド)とお題をつけて芸術として発表したぞ。
さあどうする諸君?それでも芸術か?と。

いろいろな人間が、素晴らしいと言ったり、これはどういう意味であるともっともらしく解説したりして、彼の作品は崇高なものになっていった それを横目で見てニヤニヤして笑って、馬鹿やろうどもめが。と思っているのがマルセルディシャンという人物ではないかと 僕には思える。

芸術とはいったい何か?そんなにすごいのか?

『そんなもん芸術ではねえわ!』 とハリセンボン的に誰かが叫んだとする。じゃあ一体芸術とはなんなのか?誰もが知っている誰もが素晴らしいと思って疑わない芸術とは何か?
モナリザはどうだ? あの謎めいた微笑みが 神秘的であるとされるモナリザは誰もが疑うことのできないレオナルドダビンチの素晴らしい最高傑作だ!

だがデュシャンは『ほほう、じゃあこうしたらどうだ』って言って、
そのモナリザにヒゲを描いて、『L.H.O.O.Q.』と謎の暗号を描いた。これをフランス語で読み直すとエラショクュと発音することができる
その意味は、「彼女はお尻が熱い」 という意味。
つまり、神秘的であるはずのモナリザの微笑みは、尻の穴が発情した男色家の絵に過ぎない と言っているのである 実際、レオナルドダビンチは男色家であったらしくこの時代では特に珍しいことではなかったらしい。
みんなが認める素晴らしい芸術であるはずのモナリザの微笑みも、発情した同性愛の微笑を描いたにすぎないとディシャンは言っているのである。

泉の登場 

彼のその作品の意味を最も決定づけたものは『泉』と呼ばれる作品である。
扉の写真をまず見てください。これ、なんに見えますか?そうです。男性便器ですな。

ディシャンはこの便器にR・Mutt(マット)1917」とサインをし、泉という題名だけいれてニューヨークの美術館に出展した この美術館では、わずかなお金さえ払えば誰でも出品することが許させる芸術展示会アンデパンダン展というものである。 そこに彼は、ディシャンの名前でなく架空の人物 リチャード・マット (R.mutt )として 出品したのであった。

しかもディシャンはそこの芸術審査官だったのでこの作品が展示会側にどう扱われるか、一部始終を観察できる立場だった。
ここで僕は面白いと思うのは、まるでチェスをするように、あるいはまるで詐欺師が詐欺を働くように。計画的であるということである。ディシャンは実際、チェスの名手であったが、チェスをやるように人の心の動きを読んで行動していたと思うのである。

この作品を見たときの他の審査官の反応はどうであったろうか?
デュシャンはこの作品がどう扱われるか、十分に先読みしていたに違いない。
実際、彼の考えるとおりに事は運んだ。この恥知らずな、芸術をバカにしたような下品なガラクタはなんだ。こんなものは美しくない。こんなものは芸術作品とは認めない
リチャード・マット という人物はバカではないか?
と言って他の審査官たちはこの作品を展示会に出展するどころかガラクタとして捨ててしまったわけである。

ディシャンはしてやったり!とばかりに、今度は権威あるディシャンの名前で猛烈な抗議文を新聞に載せてしまう。
新聞に事件として表沙汰になった途端にアンデパンダン展は当時ダダイズムの運動家の非難の的になり問題が拡大していく。

そして後になって、実はあれは俺が作った芸術作品なんだよと正体をあかし、芸術の価値に対する根本概念に揺さぶりをかけたのだった。

つまり、芸術とは何か?という誰でも疑問に思う事、大阪のおばちゃんがよく言う 『わたしらには芸術なんてわからんけど』という疑問を新ためて問題にして、『ワシは権威者じゃけん』と踏ん反り返っている権威主義者たちの芸術に対する既存概念を否定した訳である。
そして、今後の芸術のあり方についてものすごい影響力を与えたのだ、以上がジュシャンに対する僕の解釈。

芸術の権威に対する反抗

よく言われる、ディシャンは便器でも美しいと感じて、今までの芸術的価値観を塗り替えた、という人がいるけど。僕はそれは全くの誤解だと思うわけ。
んなあほな!便器が美しいわけがない。
彼は、皮肉屋で詐欺師で、へそ曲がりで偏屈な男だった。だから、権威主義者が分かっているような顔して芸術に価値を与えたり、非難したりする事が大嫌いだったに違いない。わかった様な顔をして芸術を評価する人をアホだと思っていた。

それというのも、彼は権威を持っている芸術家に、彼の初期の作品『階段を降りる裸体』を非難され、しかもその非難が 『裸体は階段を降りるものではない』などと
わけのわからない批判を言われ散々な目にあっている。だから、僕はこれは権威者に対する彼の反抗ではないかと思っている。


ディシャンとは芸術作品で何かの仕掛けをして、罠を張って、罠にかかったらそれを非難する。あるいは、自分の作品に対する解説のヒントを自らばら撒き、自分の作品を誰かに評価させ、その評価を裏切るような作品を後で創り、『ざーんねんでした』と否定する そういう計画犯なのである。

そして世間を騒がせてニヤニヤ笑っているようなイヤーな奴なんではないかと思うのです。

レユニオン島にあるディシャンの墓にはこう書かれている 『死ぬのは他人ばかりなり』 どうですか?この理屈っぽさ!


サポートなんて とんでもない!いや、やっぱりお願いします。次の商品開発の足がかりにします。決して呑みになんか行きません!