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朝礼でよく倒れる子ども

私は、子どものころ、よく始業式や運動会の開会式、朝の全校生徒が集まるような朝礼のとき、ずっと立っていられなくて、よく倒れていた。

べつに特別、朝起きられないとかご飯を食べていないとかもなかったと思うのだけれど、ずっと立っていると視界がだんだんぼやけていって、緑から真っ黒になって何も見えなくなり、息も苦しくなって、座り込むか倒れるか、そうして保健室に運ばれることがとにかく多かった。

最近になって、『起立性調節障害(OD)』という言葉を知って、今さらながら、これだったのかもしれない、と思った。心理的なストレスがあったのか、なんてとっくに忘れているし、水をあんまり飲まなかったせいかもしれないし、今さら原因はわからない。

言葉があることで、救われるのは、周りに理解してもらいやすくなる、ということだ。当時は、ただのよく倒れる「体の弱い子」だったし、なんなら「男だろ、もっとしっかりしろ」みたいな根性論もふつうに先生から言われていた(もちろん先生が悪いわけでもない)。

もし当時「起立性調節障害」があるので、こういうときは助けてください、とか、座らせてもらえるように配慮をお願いします、とか言えたら、もっと楽に過ごせたかもしれない。周りの友達にも「何倒れてるの、だっさ」みたいなことは言われなかったかもしれない。少なくとも、自分の体が弱いせいだ、と思う気持ちは少し和らいだと思う。

とはいえ、最近はいろんな言葉が多すぎて、なかなかとても覚えられない。そうか、そういう「困りごと」「発達凸凹」もあるのか、とは理解しつつも、すべての人にその配慮をお願いするのは、なかなか難しいとも感じている。ADHD、PTSD、ASD、HSP、BPD。いろんな「困りごと」や「生きづらさ」に名前や略称がついていく、それらを全部みんなが覚えていくのは無理だ。

同じようなことを前にも書いた気がするけれど、みんなが心理学者にはなれない。

でも、言葉があることで救われることがあるのは確かだ。見た目にはわかりづらい困りごとでも、病気かも、と思って医師に相談することもできるし、周りに説明もしやすくなる。みんなが知らなくても、自分の周りの人に知ってもらうだけでも楽になることはある。自分の生きづらさを知ってる人を、信頼できる場所を増やしていくために言葉が必要だ。

社会の側にある障害は、まずは自分の日常の範囲のなかだけでも、無くしていけたらいいなと思う。いろんな障害に配慮されていない場所は、まだまだいっぱいあるし、急にはなくならない。そういうときに、逃げられる避難場所みたいなのがあるとちょっと安心できる。

政治学の文脈では「抵抗の飛び地」あるいは「守られた飛び地」という概念が、あるらしい。いろんな人がいる社会のなかで生きていくのは大変で困難なときもあるけれど、避難できるそういう守られた場所、安心できる場所も作っておく。
自分の「生きづらさ」をお互いに理解できる仲間どうしが集まれる場所。そういう場所と社会のまだまだ未整備な場所を行ったり来たりして、少しずつ社会に働きかけながら、弱いながらも上手く生きられたら、と思う。



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