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鬼なの?なんなの?

 「怖い」にも種類があるそうだ。
 それは刃物や暴力を前にして身の危険を感じたときの「怖い」と、もう一つ、「畏怖」という神仏や自然といった人間の力ではどうにもならない未知の力に感じる怖いがある。思い返してみると、確かにあるような気がする。個人差はあると思うが、幼い頃には敏感だった。整理された感情ではないが漠然と体験したことのある感情。
 どうしてこんな事を考え始めたかというと、少し前に「鬼」に興味を持ったのがきっかけである。そして、とある記事を読んでさらに興味が深まった。今まで「鬼」と「なまはげ」を勝手に仲間のように思っていたが、どうやら違うらしい。そこには、こう書いてあった。

 「なまはげ」は、山の精霊みたいなもので、鬼のような“仮面”を着けていて厄を祓うもの。ナモミ剥ぎから由来して、囲炉裏で火に当たってばかりいると手足に火斑ができる。転じて、怠け心を戒めるためのものだ。


 イメージでは、「泣く子はいねぇーか」と出刃包丁を手に持ち、無精髭にも見えるミノを着て歩き回る乱暴者。そして、恐怖を振りまいて親の言う事を聞けとストレスを与える恐怖の化身。でも本当に伝えたいのは、子供が全てを知っていると感じている世界の外には「もっと未知なる力も有るんだぞ」ということなのだろう。それを恐怖という、不器用とも乱暴ともとれる手段を使って伝えようとしているのだ。これは、「良心」とも近しいものにも感じるし、「尊敬」にも近いと思う。こういった怖さを「畏怖」というのだろう。
 日々の生活で、「こういう事はなんだかモヤモヤして嫌なことだから自分はしないようにしよう」とか、特定の人の前で失礼なことはできないと身を固くするのも大きな括りでは畏怖であると、わたしは考える。そして、こういった感情は、わたしの場合は子供の頃のほうが多感だった気がする。
 
 こう考えると「鬼」は怖い対象で、「なまはげ」は畏怖の対象であるように思うが、日本では「鬼」が、それほど怖がられるばかりではないというのが面白い。日本では鬼よりお化けや幽霊の方が怖いだろう。なぜだか、鬼ごっこをして遊び、「鬼さんこちら、手の鳴るほうへ」と“さん”付けで呼ぶこともある。昔話の常連でもあり、節分になると「鬼は外、福は内」と毎年かけ声を発する。全然、不吉なものではないのだ。それどころか、鬼を退治することで開運するというか、運気のベクトルがプラスに向かう材料のようにすら感じる。とても面白いですよね。

 と、いうことで連休後半は、秋田県の男鹿半島に行ってきます。だいぶ回りくどくなりましたが、「なまはげミュージアム」に行きたいというお話でした。





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