見出し画像

『経験値』って、気にならなくなったコトの数?

日曜の昼下がりから、こんにちは。
ネコぐらしです。

本日は友人とランチの予定でしたが、なんとお相手がコロナにかかってしまったそうで、急遽中止となりました。ゆっくり療養、大事。


さて、3年前の”今日”までは、「コロナ」という単語を聞いただけで、まるで鬼か怪物に出会ったかのようなリアクションを起こしたものです。


感染者は早急に隔離せねば、と建物の一帯を封鎖し、物々しい防護スーツに身を包んで対応にあたる姿は、まるでパニック映画「REC」のワンシーンを思い起こさせます。

作中では、主人公のマンションで『感染者』が出現したため、マンションごとビニールのようなもので覆われていた。『REC』は全編を通して小型のハンディカメラで撮影されており、その密室空間を内側から描いたような意匠となっている。

『REC』ネコぐらしの勉強暮らし的解説(仮)


しかし、今日、友人から「コロナ」という単語を聞いても、私は至って冷静でした。

もちろん友人の心配はしました。ですが、あれこれ工面をしたりだとか、連日励ましのメッセージを送ったりだとか、そういった事はすっかりなくなった。

コロナに対して有効な手段がわかり、必要以上に恐れることがなくなった。

わたしたちは「気にしなくなった」のです。


それがこの記事のタイトルにある通り『経験値』が溜まってきたからなのかなぁと、ふと思った次第です。

今日はこの『経験値』について、お話を深めていきたいと思います。




レベルが『1』だった私たち。


たとえば、初めて就職をして、なにもかもがはじめての仕事に向き合う。

経験値が0、レベルが1の状態。



当然、最初からうまくできることなんてほとんどなくて、指摘されたり注意されたりするなかで、なんとかメモを取りながら全力を尽くして、やっと30点の仕事をこなせる。


仕事が終われば、それで安心、なんてことはなく、また翌日の出社に向けて頭を悩ませ、家に着いても、カバンをひっくり返して、丁寧にとったメモを読み返し、ああだこうだと脳内でシュミレーションをする。


翌日になれば、慌ただしく朝の準備をすませて、慣れない電車通勤に四苦八苦。目的の駅でなんとか人の波をかき分け、やっと職場について始めた仕事も、シミュレーション通りに、なんてはいかず、想像すらしないことばかりが横から入ってきては、その度にあわてふためき、あっという間に一日が終わる。


そんな毎日を、一週間、一ヶ月、一年と続けていれば、いつからか自分の変化に気づく。


例えば、電車に乗る時。
4両目の前のほうなら目的の駅でスムーズに降りれる、だとか、20分前なら比較的空いていて狙い目だ。とか。周辺のランチでおいしいお店を押さえたり、あるいは冷凍食品を活用したお弁当が、とてもお財布に優しいし楽だったり。

仕事も、先にここから手をつければ効率がいい、とか、あの人に聞けば一瞬で答えが返ってくるな、とか。翌日、もしくは一週間先のことまで予測しておいて、早めの手をつけておくから、当日にあわてふためくこともなくなったり。

もちろん苦手でいつまでも慣れない、といった仕事や出来事もあるかもしれない。それでも、初めての時よりはいくらか「気にしなくなる」

そうして、気づけばレベルがあがっていたり(ファンファーレ)



『ゲーム』の中の私たち。



では、「経験値がたまるというコト」「気にしなくなるコト」なのだろうか。

これがRPGゲームであれば、例えば敵を攻撃した時の「与えたダメージ」、された時の「受けたダメージ」は、パラメータの「ちから」「ぼうぎょ(みのまもり)」を参照すると、ある程度検討がつく。

「ちから」や「ぼうぎょ(みのまもり)」は「レベル」があがれば自然と増えていく。
そしてレベルは『経験値』を積むことであがっていく。

実際、ドラクエなんかでよくある険しい冒険をこなしていれば、肉体が屈強になっていく様子はイメージできます。

しかし、全てが物理的な要素かといえば、そうでもない。

たとえば、この武器はこの角度で振るうと、脱力したままでも十分威力が伝わるな、とか。

この敵は右の脇腹が弱点だな、とか。

敵の攻撃は真正面から受け止めず、力を左右に受け流せば楽だな、とか。

そういった技術的な工夫とか見識による経験値、というのも存在するはず。



物理的な要素だったり、技術的な要素だったりの全てが『経験値』という一語の言葉に、集約されている。


ゲームは単純です。敵を倒して経験値(Exp)をためれば、強くなる。

しかし現実では、ただただ経験を数積むだけでは、どこかで「気になってしまう」。
ただ目の前の仕事や問題を同じ用に処理していては、レベルアップを実感できない。


数こなせば、という言葉がありますが、無心でやれば経験値が増える、というほど単純な話ではありません。小さな気付きや訂正の累積が、そこに必ずあるはず。

では「気にしなくなるにはどうしたらいいか」を実践していくコトこそ、本当の意味での『経験値』をつむ方法……なのでしょうか?


うーむ…。

どうも、この結論はもやもやが拭えません。

まだもうちょっと深掘りできる気がします。



違う『経験』を積んでいる私たち。


『経験値』をつむ、ということは、それだけ「考えなくなる」ということでもあります。

正確には「ある時期に考えて出した結論を、その後人生でそのまま引用し続ける」といった感じでしょうか。永遠に自分をサンプリングする、みたいなイメージです。

  • 人と比較はしないし、過去の自分とも比較しない。

  • クリエイティブではなく、「落とし所」的な成果を出し続ける。

  • 新しいことにも、マニュアル対応。

  • 分の悪い賭けはしない。

  • あやしい人や、良く知らない人には近づかない。


たしかに、経験を元に実践を続けていけば、ある程度の安心安全は担保できますし、自分の心も平静を保てます。


しかし、この文字群からは、どうにもかなしい響きがするのです…。




わたしはよく「君は余計なことを考えすぎなんだよ」と、人から怒られる性分でした。

当初は「感覚人間」だったので、言語化がどうにも下手っぴで、その余計な思考をうまく説明することができませんでした。社会的な制約の中で言葉を選んでいる間にタイムアップ~、みたいな出来事がたくさんあった気がします。


なので「ああ、考えすぎはいけないコトなんだな。改めよう」と思い込み、言われた通り、「余計な思考」を切り捨てることに尽力していました。

とはいっても、結局は頭に自然発生するものなので。完全に切り捨てることはできませんでした。でも、ある程度表に出さないテクニックは身についた気がします。


対して最近の私は、その「余計な思考」を言語化できるようになってきたので、むしろコミュニケーションの一助になるような場面が増えた気がするのです。

噛み砕いて伝えると、「ああ、そうか、そういう考えもあるのか、なるほどね」ってな具合で納得してもらえて、より深い相互理解に発展したり。

人によっては、きっとこの「余計な思考」を切り落として適応したほうが楽だという『経験値』を積むこともできるし、私みたいに「余計な思考」を言語化するほうが楽だという『経験値』を積むこともできる。


これらを全て同じ『経験値』とカテゴライズするには、無理がある。

違和感の正体はまさに、ここに隠れている気がしました。

・・・


『気にしなくなる』ことが、まるで『レベルがあがった!』ように扱われるコトに対し、今だに違和感を覚えます。


もちろん、余計な水を指すことが、人とのコミュニケーションによい影響を与えないことを『経験』している私は、その場で追究したり否定したりはしません。

しかし後になって「あの違和感はなんだったんだろうなぁ」と考えれば考えるほど、どんな思考ルートを辿っても「やはり何かがおかしい」という、結論にしかたどり着かないのです。

そこで『経験値』の厄介な性質に気付きました。

すべての経験が『経験値』という便利な言葉に集約されてしまい、それに伴い『レベル』の概念すらも統一化されてしまった。のではないかと。



いろんな方向に『成長』していく私たち。



現在、「あなたの日本語だいじょうぶ?」という、言語学者の金田一秀穂先生の書かれた本を読み進めています。


書籍では『経験値』について触れている一節がありました。

若いうちは、小さな過去とでも何かあるとすぐに動揺してしまい、これで人生観が変わってしまうなどと考えた。おっちょこちょいで軽薄だった。ああ恥ずかしい。そうして今だに変わらず恥ずかしい。そんなとき、「経験値」という言葉を見つけた。

あなたの日本語だいじょうぶ?/金田一秀穂先生


この後に金田一先生は、様々な失敗体験談を続けるのですが、ここから読み取れることがあります。


金田一先生はずっと「気にし続けている」です。

書籍執筆時点で、先生は70歳。それでも、改札でうまくSuicaにチャージが出来なくて恥ずかしい、ってわざわざ本に書いたりするのです(笑)
めちゃくちゃかわいい先生です。


このお年になってなお、言語学者を続けているのは、どういうことなのだろう。それは「言語、ひいては言語に関わるコト全てをずっと気にし続けている」からなのだと。



気にし続け、たえず訂正していく力。

それこそが『経験値』を積んで成長するコト、なのだと私は感じました。



……はて、「気にし続けるコト」が『経験値』なのであれば、不思議な話です。さっきと言ってることが、逆の結論に達してしまいました。

実はこれ、とても簡単な話だったのです。



「気にしなくなること」で積めるのは「”気にしなくなる”経験値」です。

「気にしなくなること」で、あがるのは「”気にならなくなる”レベル」です。


そう考えると、自然と腑に落ちました。



おそらく、みんなが「レベル」と言っているのは異口同音ならぬ異意同音で、ちゃんと「レベル」の内訳を展開して話さないと、違うことを取り扱ってると気づけないまま、どんどんズレていくのだなぁと。


例えば「あの人は”レベル”が低いなぁ」ってチクチク言葉を考えてしまった時は、「あの人は”私と別の分野”の専門化なんだなぁ」って考え直すようにしましょう。


レベルが低いんじゃなくて、私とは別の『経験値』をつんだのよ、って。


・・・

今後も『経験値』を積む『私たち』




『経験値』という言葉は恐ろしく汎用性の高い言葉であると同時に、どうにも上下関係を明確に作り出してしまう厄介な性質をもっています。


その人にとっての『経験値』が何を指すのか理解しないままコミュニケーションを発展させていくと、おもわぬところで悲劇がおこるかもしれません。


だからこそ、自分にとってや相手にとっての『経験値』が何かを常に考えて、時に訂正しながら、今後とも付き合っていきたい言葉ですね。


わたしは、今後も「”考える”レベル」を上げていきたい。

今日は、そんな『経験値』を得たネコぐらし、でした🐈


📓合わせて読みたいオススメ記事📓

📕話の中で引用した書籍をレビューしてみました。📕




ネコぐらしは『文字生生物』を目指して、毎日noteで発信しています。📒
※文字の中を生きる生物(水生生物の文字版)🐈

あなたのスキとPVが、この生物を成長させる糧🍚

ここまで読んで頂き、ありがとうございます✨


#毎日note


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?