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note放浪記。その1『はじまりの大聖堂』

noteとは、いったいなんだろうか。
文章に込められた想いをめぐるうち、私も書き手としてすっかりこの世界に馴染んだ気がする。
だけれども目まぐるしく量産されていく文章たちにただただ翻弄されいるだけのような気もする。

ある人は生活の一部に。
ある人は書くトレーニングに。
ある人は日々の生きる糧に。

あらためてnoteを知るため、流浪の旅に出かけることにした。


note大聖堂

noteはクリエイターにとって創作の街である。
ここの大前提は変わらないから、旅のスタート地点として選ぶのはnote公式の建てた大聖堂。
習慣化と創作を掲げた荘厳な建物がおりなす、シンプルにして単純なプラットフォーム。
街から街へと流れていゆく人の祈りが日々集って、おすすめやら注目の記事やらたえず紹介されている。
そんな讃美歌たちに心に打たれて、人々はより一層祈りと期待を胸に大聖堂に足を運ぶ。

巡礼を繰り返している人はいつか気づき始める。
額縁に飾られる文章には一定の法則性があり、感情と説得力と論理が一体になった創作物であることに。
聖遺物みたいな恰好している創作たちは、むしろカジュアルにその胸中を開いている。
誰の手にもなじみやすく、心にスッとしみいる親近感を秘めている。

言ってしまえば、ここに飾られている創作物そのものが賛美されているわけではない。
つづられたエッセイや小説、詩、自己紹介、理念、ノウハウ、もしくはVtuberのようなガワまで。それらを通じて「書き手」の心までするりとアクセスさせてくれる役割を「創作物」は果たしている。

この創作物を誰がどんな意図で作ったのかについて、巡礼者もとい読者たちは興味を抱く。
不思議な文法、めずらしい語句、こった表現、そういったいろどりや緻密に描かれたレトリックは、注目を集めるにおいてそれほど大きなウェイトを占めない。
ぱっと見の「美しさ」や「感動」が、いかに創り手と読み手の心を密着させ、シンクロさせられるか。そんな要素が含まれていればいるほど、あればあるほど、りっぱな聖遺物として人々の目に留まりやすくなる。

・・・

飾られているモノ

大聖堂に展示されている装飾品を一望してみると、その証拠にといわんばかりに洗礼されたモノたちが残されている。

蠟燭立て、十字架、木目調の長椅子、レトリックな聖杯、一面壁画、フォトジェニックな天井画、その天井画に向かって管を伸ばすパイプオルガン、正面から日を迎え入れるステンドグラス。

美術品がわかりやすい視覚から第一に訴えるように、「創作物」にどんな意匠をこらしていたとしても、カタチがはっきりしてさえいれば、私たちはそれらがどういった用途で使われているかをすぐに判別できる。

これは火をつけて内装を明るくするための円錐状の蝋。
飲み物を入れて神にささげる、または体に取り込むための器。
古の戦いを伝聞するための日持ちのよい油性で描かれた絵画。
…あんどもあ~。

歴史の中で余分なものだったり、不必要なものは多くの場合カタチを残さずに消えていく。
言い換えてしまえば、人々のモノに対する信頼と簡単な認識が「ブランド」と名を変えて世の中に浸透していくため、残っているのは「人々に必要とされた」ものだけなのだ。大なり小なりあれど、ブランド以外が世に残り続けることはほぼない。

経済的な付加価値があり、かつ、ある程度の年数と認知されてきた事実があれば、わたしたちはモノではなく「ブランド」にお金を払うことに抵抗が薄れていく。

聖杯がブランド品なのか?って点には疑問を覚えるけれど、聖杯はブランドでなく適切には「文化」と表現するのだろう。ミサの礼典で用いられるキリスト教発祥の聖遺物。

では、noteの大聖堂に飾れているような美しい聖杯、もといその「記事」に対して、わたしたちは何を支払っているのだろうか。

答えはシンプルに「時間」なのだと思う。

・・・

時間を払う巡礼者

記事を読む時間。
読んだ後、心に広がる感動を味わう時間。
スキをポチッと押してからコメント欄にあふれた想いを書き込む時間。
引用しながら、新しい記事を書く時間。
記事を書いた、その「書き手」を読み解く時間。

心から良いと思ったモノに、信頼と実績を超えて書き手がいっしょうけんめいにつづっている姿を浮かべ、言葉を贈る。
さらにおくったコメントにも、それを贈った誰かの姿が宿り、双方的なコミュニケーションが生まれる。

時に文章にしたためるだけでは想いがおさまらず、standfmやXのスペース機能で音声を聞きに行ったり、著名な作家さんであれば講習会に足を運び、最終的には実際に逢いに行くこともある。

この図式に従うのなら、「創作」は「コミュニケーション」のためにある、と私は思う。

note大聖堂に飾られた品々を見に行くことは、確実に世の中に存在している「生の素敵な人間」に惹かれ、日常生活で起こりづらいであろうひと時のセレンディピティを体感したいがために、参拝を続けるようなものだと思う。

人生は出会いと別れの繰り返しと、どこかの誰かが言った言葉が頭のなかにうごめいている。

「よい記事」を紹介することで恩恵をうける人がたくさんいて、彼ら彼女らは、出会いと感動をつねに渇望している。
人の輪の中でいきる喜びやすばらしさを体感するため、今日も「創作」を続けている。
大聖堂に飾られている品々は、過去に想いを馳せるためではなく、ひとりひとりの創り手が未来へ前進するための「創作物」なのだと、強く思う。

・・・

「生」の反応

通常の礼拝堂などと異なる点は、誰もが生きている人間に着目しているということ。
例えば、とうに亡くなった作家さんたちの作品を書評したりオススメすることは、わたしたちにとって気楽なものになった。誰もが発信する手段を得ているから。

「面白かった」「オススメです」の一言を添えて本の表紙をポンっと共有するだけでも、立派な読書感想文。
インフルエンサーであれば「おはようございます」ついでに投稿するだけで数千のイイネと数十万のインプレッションを稼ぎえることができる。

しかし、故人からのイイネも、リプも、当然インプレッションもつかない。
死人に口なしで、故人が何を想っているかは、おそらく考慮されない。
「創作」が「コミュニケーション」なのであれば、わたしたちが故人と対話することの意味がひとしく失われてしまうように思える。

きっと多くの人が「生」の反応が求めている。
たとえ故人を偲ぶ気持ちや、想いを遺す意志が本物だとしても、感想文を書き、自身の心から手放した時点で創作物は「訪れるかもしれないセレンディピティ」を期待したものとなる。

創作とは、すべてがコミュニケーションのためのもの…?
本当にそういうものなのだろうか。
疑問はぬぐえない。

・・・

気難しい創作者

木目調の長椅子に腰を下ろして観察する。

カテゴライズされた注目の記事たち。
画一的になっていく文章の形式。
それらが大正解なのだと、だんだんに思いこまされてくる。
視野が広がっているようで、狭まっていく感覚がある。

創作は、コミュニケーションのために。
…そうなのかな。

よい創作であるほどマジョリティに迎合され、より多くの人から興味関心を持たれる、と大聖堂では語り継がれている。

でもそれって結局のところ、創作がただの「道具」になってしまうのではないかなって。

私は、不思議に思いながらも絶望感に打ちひしがれる。

それであれば、もともと気立てもよく社交的な性格を持っていなければ、人々の意図するところの「創作」に相容れなくなってしまう。
創作物をとおして心を覗かれてしまったら、わたしって人間を構成する「気難しさ」を届けてしまうことになって、読み手を困惑させてしまうのではないか。

ここのルールに従えば、良質な「セレンディピティ」や「ボーイミーツガール」をみすみす捨ててしまう真似をしている。
私はせっかくの機会を「創作」というカタチで排出、どころか文章に込められた想いごと廃棄し続けている、ことになる。

・・・

書くコミュニケーション?

noteのトップページに向けて膝をおりながら祈りをささげる。
目を閉じて、両の掌をかたくむすびあわせて、ややうつむきがちに。
ひとしきり瞑想状態(迷走?)を終えて目を開き、あらためて中の様子をうかがう。
ここにあるものは、私の心を震わせると同時に、自分がいかに異質な存在であるかを否応なく分からされる美しい展示物ばかり。
ここには居ることで、心地のよい快楽と、一種の罪悪感を覚える。

しかし、書き手である以上、わたしもわたしにとっての創作物を見つけなきゃいけない。快楽に浸るよりも、罪悪感にさいなまれるよりも、次を書かねばならない。

たとえば、公式からの注目を集めるような記事を研究してホンキで取り組むのもひとつの選択。
一度でも注目の記事に選ばれ、額縁に飾られたことがある人ならば、当然そういった指針にシフトしていくのは自然な流れだ。

いわゆる「書くコミュニケーションスキル」を身に着けること。

人々の意識や無意識をひもとき、彼らの心や体にスッと入り込む創り方を身に着けること。
自分の書けること、人が読みたいこと、話題になりやすいこと、のベン図をサッと書いて円と円の重なるところを集中的に鍛えていくこと。
もしくは、人、テーマ、書き方の三本柱を建造して、中央に生まれるバミューダトライアングルの面積をひたすらに広げ、旅客機ごと人々を巻き込めるような巨大な三角形を描いていくこと。

これらの創作は、コミュニケーション。
それって本当に私がほしいもの?
私は出逢いを求めている??

・・・

外からみる大聖堂

振り返って両開きの大きな扉に歩みを進める。

街の中心にそびえたつ大聖堂から外へ。
暗がりに慣れた瞳孔に日の光が突き刺さる。

神聖な空気から、新鮮な空気に切り替わる。
とたんにホッとしたような気持ちが体中をめぐっていった。

神聖視されていた「コミュニケーション」文化から解放されて、つまった息が肺からあふれだして街の空気と一体になっていく。
誰かのために呑み込んだ想いも一緒に、空気中にうんさんさせたような気分。

大聖堂に振り返る。
イメージするに、ドイツのケルン大聖堂のようなオーソドックスなゴシック様式。
あがめられていたコミュニケーション教から、念願の一時脱退が認められたようで胸をなでおろす。

もちろん、コミュニケーションが人々を豊かにすることは重々承知だ。
貨幣経済において食い扶持がなければそもそも生きていけないから、それを悪くいうつもりは毛頭ありません。

noteには、それこそビジネスチャンスを求めて訪ねてくる人もいれば、自身の創作にいかほどの価値が付くか挑戦のつもりで門をたたく人もいる。もしくは日記のようなささいなチャレンジから、習慣化の手助けにと始められる方もいる。

人々の思惑はごちゃまぜになっていき、そんな混沌のなかから新しい歴史を紡がれていく。
この大聖堂だってその渦中、常にカタチを変えながらアップデートされていく。
2020年以前のnoteと比べれば、記事のテンプレートが決まってきたり、画一的になりつつある創作たちに対して一抹の寂しさを覚えることもある。

その時その時代で、ひとびとの欲望を一身に受け止めるプラットフォーム。
柔軟にカタチを変えて、私たちの描き出す物語もそれに合わせてカタチを変えていかなければならない気がしてくる。

いずれ、目の前の大聖堂もすっかり姿を変えるかもしれない。
もしかしたら、外装のゴシック調がバラバラと崩れていって、中からジャパニーズ神社とかジャパニーズ仏閣が顔をのぞかせる時代がくるかもしれない。

ここに渦巻くのは、サービスの存続をかけた運営自体の「創作」の場なのだ。
間違いなく、そこに内包されている「コミュニケーション」を肌で感じる。
であれば、姿かたちが一定である道理もないかも。
諸行無常。


旅の始まり


さて、ではどこにいこうか。

街の中心はきらめいていて、どよめいていて、だれもが良質な創作に熱中している。

しかし、それは街をカタチ作るほんの一部でしかない。

まぎれもなく大聖堂が街の中心だけれど、この世界は遥か彼方まで広がっている。

自由に放浪してみようかな。
記事から記事へ。
より世界の隅っこに。

袖振り合うも他生の縁、は大事。
でも袖を絡ませあって、その人本来の動きを止めてしまうのは、まだ見ぬ創作の足を引っ張ってしまうことになるかもしれない。

おでかけしよう。
海やら山やら。

辺境の地で起こりうる「セレンディピティ」だって、私にとっては貴重な体験だ。

旅をする。
noteの世界で旅をする。

もっとたくさんの文章に触れたいな。



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