マルセル・デュシャンの墓碑銘

マルセル・デュシャンの墓碑銘
 
フランス生まれの画家マルセル・デュシャンの墓碑銘には、「さりながら死ぬのはいつも他人ばかり」(私は、フランス語は全然分からないが、原文は次のとおり。)”D’ailleurs,c’est toujours les autres qui meurent.”と刻まれているそうだ。
寺山修司はこの言葉が好きだったというが、別に同じ言葉が寺山自身の墓碑銘に使われているわけではないらしい。寺山は『地獄編』の中でこう書いているという。
「自分の死を量ってくれるのは、いつだって他人ですよ。それどころか、自分の死を知覚するのだって他人なんです」
寺山は、至極当然のことを書いたに過ぎない。自分の死を認識できる人間などいはしないし、病床にある自分が生きているのか死んでいるのかを決定するのは、自分自身ではなく医師たちである。「生きるか死ぬかという態度については自分で決定できるけれど、「死んでいるのか生きているのか」という状態については、他人の判断を待つしかないのだ。
また、ジャンケレヴィッチの「一人称の死・二人称の死・三人称の死」というものがある。一人称の死とは、「私」の死であり、当事者に訪れる肉体的な活動の停止、人生の終焉であるが、当人はそれを意識することが不可能である。 
二人称の死とは、つれあい・親子・兄弟姉妹・恋人の死のことだ。自分の生活・人生を共有してきたかけがえのない人を失う時、残された人は自分自身の一部を喪失したような辛さや悲嘆を味わうことになる。自分の愛した人と共に過ごす人生の終わりであり、愛する人の永遠の別れのことである。 
三人称の死というのは知人や友人、全くの赤の他人の死である。見も知らぬ他人が死んで行っても、自分には全く何の影響もない。北朝鮮で何人かの人が死んだとしても、それで当人達のことをかわいそうにとは思うが、家族の死とは衝撃の大きさが全く異なる。
私たちの周囲に溢れているのは、言うまでもなく「三人称の死」である。「二人称の死」が周囲に溢れていたら、おそらく私たちはまともに生きていく気力はない。その意味では、デュシャンの墓碑銘に刻まれた言葉は正しいのだ。
皆人の知り顔にして知らぬかな 必ず死ぬる習ひありとは慈 円
 さて、この日記の題名を裏切るようで申し訳ないが、私がここで触れておきたいのは「一人称の死」である。言うまでもなく、人間は生の始めから「独生独死独去独来」に曝されている。唯一人である。もちろん、生きている間は、多くの人の支えがなければ生きていくことはできない。赤ん坊が一人で生きるのは不可能だし、寝たきり老人が一人で生活するのも不可能だ。
「天瓜粉しんじつ吾子は無一物」(鷹羽狩行)として生まれてくる人間は、晩年には「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」(久保田万太郎)という感慨を抱く。その間に、様々な欲望や汚辱にまみれながら、生き延びる能力を身に付ける。己の能力を過信したり、深い失望に囚われながらも見果てぬ夢に振り回されたりする。行き着く所まで行き着かねば分からない者もあれば、遙か手前の所で分かってしまう者もある。何を分かるのか。世の無常である。無常とは永続とは反対のことである。つまり、生住異滅の繰り返しのことである。
 無常ということが分からない人は、最後の最後まで何かに取り憑かれ執着と共に人生の悲惨な幕を下ろさざるをえないだろうと思う。無常ということを理解していれば、心は平穏だからである。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?