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戦争と平和 日本と香港~旧日本軍の足跡をたどる~金山陣地跡編

■旧日本軍が城門陣地陥落、英軍は金山一帯に撤退
■激戦の末、英軍は全部隊の香港島への撤退を決断

1941年12月8日のアジア太平洋戦争(大東亜戦争)開始を受け、旧日本軍は英領香港に侵攻。このうち陸軍は第38師団歩兵第228、229、230連隊が深センとの境界を突破した。侵攻直後、目立った戦闘はなかったが、口火を切ったのは日本軍だ。12月9日深夜、第228連隊が新界南西部の城門陣地に奇襲攻撃を仕掛け、翌10日未明に陥落させた。たった数時間だった。

日本軍はこの城門陣地を、英軍が築いた約20キロに及ぶ防衛線「酔酒湾防戦(ジンドリンカーズ・ライン)」の急所と見ていた。九龍半島の市街地や深水◆(土へんに歩)の英軍駐屯地と近く、香港最大と言われた「城門水塘(城門貯水池)」と隣接していたためだ。同貯水池は当時、九龍半島全域と海底の給水管を通じて香港島に送水し、英領政府や軍、市民の生命線の一つだった。特に貯水池に最も近い防御陣地(トーチカ)「255高地」に照準を合わせていた。

城門陣地の陥落を受け、英軍は12月10日夜までに城門貯水池の南側に当たる金山陣地一帯に撤退。日本軍を迎え撃つ機会を探った。金山陣地は、金山(ゴールデンヒル)(標高369メートル)という山の中腹にある。そのまま名称として使われた。

12月11日午前7時30分ごろ、旧日本軍歩兵230連隊の第2大隊(大隊長・若松満則大隊長少佐)が金山陣地への猛攻を開始。当初苦戦を強いられたものの、同日午前10時20分、「366高地」を占領した。同日午後2時に「256高地」を陥落させ、午後6時には金山一帯を占領した。英軍が築いたジンドリンカーズ・ラインは有名無実化した。これにより、香港島にいた英軍のクリストファー・マルトビイ総司令官は翌12月11日正午ごろ、新界、九龍の全部隊の香港島への撤退を命じた。

|新界地区最初で最後の激戦地

歩兵230連隊第2大隊(若松大隊)の足跡の一部を、今もたどることができる。街の風景は当時から一変したが、歩けば容易ではないことにすぐに気が付く。戦史叢書「香港・長沙作戦」によると、若松大隊は1941年12月11日、現在の新界地区・上葵涌(現在のMTR大窩口駅付近)から下葵涌に向かって南進し、そこから金山陣地への攻撃を開始したのだという。あえて急峻な西側から攻撃を仕掛けたのだ。

「若松少佐はジンドリンカーズ・ライン南西部への進攻を独断で決め、金山陣地の『無血占領』に導いた」と「香港・長沙作戦」は説明している。だが実際は、英軍にとってジンドリンカーズ・ラインは既に時間稼ぎのためという位置付けで、無血占領は香港島への撤退を早々に決めたからにすぎなかった。英軍の「本丸」は香港島だった。

それでも、金山一帯は、新界地区で起きたなかで最初で最後となった激戦地であり、英軍側の香港島撤退命令を早めたのは事実だ。今もなお生々しい弾痕を残す。両軍に死傷者が多数出たことも補足しておきたい。

防御陣地「PB(ピルボックス)314」の遺構は、入り口や施設の一部が大きく破壊されており、内部にはかなりの土砂が入り込んでいる。大人ひとりがかがんで、やっと歩ける通路だけを残す。今では木々が鬱蒼と茂り、外からは容易に発見できない。香港政府も整備しておらず、たどり着くのが難しくなっている。ある戦争遺跡の専門家は「戦後は密入国者らが住んだり、資材が盗まれたりして荒廃が進んだ」と説明してくれた。

激戦地となったPB314の入り口
PB314の内部

金山では新界と九龍地区を結ぶ幹線道路、大埔公路(タイポロード)に近い防御陣地「PB315」にも触れておく必要がある。PB315はタイポロード沿いにあるが「秘密の通路」を通らなければたどり着けない。ただ人がほとんど訪れないので、遺構の保存状態は比較的良い。ここでも日本軍兵士が残したとされる文字が残っている。

PB315内部に残る日本兵が残したとされる文字

目を凝らさないといけないが、右側の上部に横書きで「16、12 10 」、その下に「愛知縣出身者」「武運祈ル」とある。左側を見ると上部に横書きで「16 12 9」の文字が、その下に「沼部隊占領 八九二七部隊」「竹下×長」「分隊」と書かれている。

数字はそれぞれ昭和16年12月10日、9日を指すのだろう。ただ、ここで疑問が生じる。日本陸軍の金山占領は12月11日なので事実と異なる。では、誰かのいたずらなのだろうか。沼部隊とは日本陸軍第38師団の通称で、「(沼)8927」は第38師団山砲兵第38連隊の通称号だ。同連隊はジャワ・スマトラ作戦やガダルカナル島作戦などに参加し、ラバウル防衛戦に参加中に終戦を迎えている。

こんな場所までわざわざ来て、通称号をいたずらで書くとは想像しづらい。見知らぬ土地で生死をかけて昼夜を分かたず戦うなか、日付の感覚にずれが起きてもおかしくないのではないか。筆者は本物の可能性が高いとみている。引き続き調査を進める予定だ。

参考:野外戦地遺跡 高添強著/天地図書・郊野公園之友会
 戦史叢書「香港・長沙作戦」防衛庁防衛研修所戦史室著/朝雲新聞社
「囲城苦戦 保衛香港十八天」邱逸・葉徳平・劉嘉雯著/中華書局(香港)

※見出しの写真はPB315の内部から撮った銃眼

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