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「最後の国民党戦犯」蔡省三さんを偲ぶ

「最後の国民党戦犯」とされた元国民党幹部、蔡省三さんが2022年1月6日、香港で亡くなった。103歳(数え年104歳)だった。生前、約10年にわたる親交を通じて、普通話(標準中国語)で「蔡老(ツァイラオ=蔡おじいん)」と呼ばせていただいた。最大級の敬意と感謝と親しみを込めて、以下、蔡老と書かせていただく。


|始まりは南京戦の市民講座

蔡老と知り合ったのは、ちょうど10年前の2013年1月。厳密に言うと、筆者が蔡老を探して、ついにお会いできたというほうが正しい。前置きが少し長くなるが、蔡老を探すことになったそもそものきっかけは、11年12月、香港海防博物館で開かれた南京戦(中国語で南京保衛戦)に関する市民講座だった。1937年12月に中華民国の首都だった南京で展開された戦闘に加わったという元国民党兵士3人がゲストとして参加した。

講座は数十人の市民で席が埋まり、関心の高さがうかがえた。基本的に香港市民向けの講座なため広東語で進行されており、日本人どころか外国人は筆者だけだったと思う。質疑応答の最後に、思い切って手を挙げた。自分は日本人で日中戦争を含む第二次世界大戦に関心を持っていること、戦争と平和をテーマにしていると触れたうえで、日本や日本人に対してどのように感じているのかと普通話で尋ねた。

まさかその場に日本人がいるとは思わなかったのだろう。ゲストも司会者も居合わせた市民も、一斉にこちらに目を向けた。筆者も自分の声が少し震えたのが分かった。こうした中、詳細はうろ覚えだが「日本人のことは恨んでいない」と、なまりのある普通話で1人が答えてくれた。一番年上の、中国・江西省南昌市から来た呉春祥さん(16年7月死去)だった。

講座終了後、呉さんのご家族から一度ゆっくり話をしたいと声を掛けられ、連絡先を交換した。翌12年4月、南昌旧市街地にあるご自宅を訪問し、呉さんへのインタビューが実現する。帰り際、呉さんから「蔡省三という同郷で同年齢、黄埔軍官学校(中国国民党が設立した陸軍士官養成学校)の卒業生が香港にいる。探してくれないか」と懇願された。

それが蔡老だった。呉さんによると、同期の中でひと際目立つスター的な存在だったという。

|蔡老を探して

香港に戻り、早速「スター探し」を始めた。蔡老が十数年にわたり時事コラムを書いていたという香港の日刊紙「新報」編集部や、台湾の香港窓口機関などにも問い合わせたが、手掛かりになるような情報は全くつかめなかった。1918年生まれで既に高齢なため、健康状態への心配もあった。

ほとんど諦めかけていた2012年12月、新報の編集者から「蔡省三さんの連絡先が分かった」と突然連絡があった。同紙の時事コラム「蔡省三時評」を執筆してもらっていた当時のメールアドレスが見つかったという。このアドレスに連絡してみてはどうかという提案だった。

早速、「蔡省三さんを探しています」とメールを出したところ、なんとその日のうちに返信があった。高齢にもかかわらずパソコンを使いこなされているのかと驚いたが、後から60代の蔡老の妻、呉瓊さんが代送していたのだと知った。ともかく探し出せた幸運に感謝した。探し出すまでに約8カ月かかった。南昌の呉さんにも、電話で蔡老を探し出せたと報告した。

そして翌13年1月のある日、筆者の携帯に見知らぬ番号から電話が掛かってきた。恐る恐る取ったところ、聞き慣れない年配の中国人男性が、筆者の耳元で何かを繰り返した。だが、何を言っているか上手く聞き取れない。

「申し訳ありません。どちら様でしょうか」と尋ねた。

「我是蔡省三(わたしはツァイ・センサン)!」

今度ははっきりと聞こえた。驚きのあまり体が固まった。まさか、ご本人から電話をいただくとは! 

この日から、筆者と蔡老との交流が始まったのだ。


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※写真は2016年に上梓された「蔡省三傳 上・下」。妻で文筆家の呉瓊さんがまとめた。蔡老が幼少期から付けている日記と、蔡老が語った内容を呉瓊さんが書き起こした口述筆記が土台になっている。激動の中国近現代史の縮図であり、国共内戦後や撫順戦犯管理所での旧日本軍人らの様子などが分かる貴重な資料でもある。

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