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ハラスメントと声をあげて『僕』らは何を喪失し、何を得たのか

三島由紀夫、萩原朔太郎などの文学を担ってきた人間が口を揃えてきて言ってきたのは日本人の空虚さであります。
グローバルなどと自己の理解が追いつかないまま時代に流されていくと、自分たちはわかったフリという着物を着て流されていく。
個人主義というものが肯定的な意味を人生において見出してくれるであろうとポピュリズムで選ばれた"お上"から言われたことを間に受けてしまうのです。
これが例えば、自己責任
そんな言葉を無意識化で押し付けられて個人主義というもの肯定的に捉えてしまうと自分というものと、ちゃんと向き合ってこなかった人間は常に他人と比較してしまいその優劣において人間の価値というものを決めてしまう節さえあるのですから……
日本人の自己同一性えいというものはどのようにあるのかということをいま一度考えることが大切なのではないでしょうか


そんな日本人の現在の流行は、ホワイト社会という流れに乗った「清貧ブーム」でございます。

ハラスメントで注意し合い、牽制し、悪しき当たり前の習慣をしっかりと正すようになった。
そして、『僕』らは何を得たのだろうか

タバコは体に悪いよねというキャンペーンで健康志向へとなっていく
多くの人は何か空気に流されては健康を求めるのだけど、健康的な振る舞いをするようになった
そして、『僕』らは何を得たのだろうか

芸能人の浮気不倫問題に大きく関心を寄せてはテレビの向こうの人間に勝手に期待しては裏切られた感を不満感にして押し出すのです。
そして、溜飲をおろしては自分がやりたくないと不満をたらしている仕事や何かに精を出すことへ戻っていくのです。
そして、『僕』らは何をえたのだろうか

社会の多様性というものは自分たちが生きる世界をより良くするものではなかった。
他人の寛容さを認めることに重きを置くはずのものは、個人の不快に対して何を言ってもいいという不寛容を外に出していいという免罪符としての役割をもち、許可の価値観へと変化をしていったのです
つまりはこの事実を「〜とかハラスメント」という言葉に記号化することで扱いやすくすることでの自分の不快に対してみんなも嫌いだよねという賛成を募るための重みとして機能していく、そしてその声に誰だか知らない人が賛同していき「みんなの不快」へとなっていくのです。

いえ、たしかに暴力や暴言、ヘイトに対して苦しむ人たちがいなくなることはとても素晴らしいことであります。
しかし、この一つひとつの事象に対して個々を守る機能としては働くことはなく、どこかお祭りのような雰囲気をまとっているようにも思えて仕方がないのです。

この個人の快不快というの在り方が最適化されていくこの世界において当然のように受け入れられていますが、これによって人々の幸せというものは最適化されているのでしょうか……
〜ハラスメントなどによって人と人の話す、関わる時間(人と人の滞在時間)のようなものは減ってきているように思えてなりません

この個人というものの不快が表出することで何が変化するのでしょうか
この表出された言葉によって社会の中で醸造され拡散されていく、その結果ルールとしてではなく"空気感"というもので従わざるえないようなものに支配されているに過ぎないのではないかと思えてならないのです。

そして、これは「黒」であっても「白」と言わせてしまうような強いものであると感じているのです。
この表出された声を上げるというものは、それをテーマにして人々が話し合って何かルールを決めたりそれ以上、人が苦しまなくて済むようなものではなくただただ"空気"というものが肥大化して支配しているに過ぎないように思えるのです。

そして、この単純化されてその都度に出てくる言葉は支配の先を変更しているに過ぎないように思えてならないのです
『僕』が見ていて感じる限りはこの社会の成熟による意識の高まりとはどうしても思えないのです。
勘違いした驕り高ぶった人間の"意識高いふり"に過ぎず、それらのツールとして、体裁よくキャッチャーな言葉が使われているに過ぎないのではないでしょうか

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