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現代の人は受苦、パトスを意識して持ち得るのか

人が何かに縛られるというテーマでここ最近はnoteを書いています。
時間や生まれた場所、自分の国、親など変えられないものを宿命と呼び、人はそれを抱え、その中で生きていくのです。
何か大きなテーマのようにも思えますがそんなに重くは考えず、ただ生きるときに忘れているだけのものを思い出してもいいのかもしれないという散文です。

宮澤賢治で考えれば、彼の描く作品のモチーフというのは一貫していて受苦つまりパトスというものであるといってもいいかもしれません。
自分の命を維持するためには他の命を奪わなければならない、他人の何かを犠牲にしなければならない。
この無限の連鎖、関係を受苦として感受するのです。

自分が存在することでこの世に悪を生み出すとするならば、自分の生とはいったい何なのだろうという疑問を持った宮澤賢治は自分で答えを出しましたが、『僕』たちはどのような結論を提示することができるでしょうか?

人間の生の意味を問うとき、宮沢賢治の作品に一貫して流れる「受苦」というモチーフは、深い洞察を与えてくれます。
生きるために他者の命を奪わざるを得ないという宿命は、確かに私たちに大きな苦悩をもたらす。自分の存在が世界に悪をもたらしているのではないかという疑念に、誰もが一度は囚われるものです。

しかし、この苦しみこそが、人間の生の本質的な意味を照らし出しているのではないだろうか。自らの存在が他者に与える影響を自覚し、その責任の重さに苦悩することができるのは、人間だけに与えられた特権なのかもしれません。
他の生物は、ただ本能のままに生きるだけだ。しかし人間は、自分の行為を省み、その意味を問い続けることができる. これがある意味「生」という輪郭を作り出していると言ってもいいかもしれません。

この自覚と苦悩があるからこそ、私たちは「善」を目指して生きる意志を持つことができるのだと思う。他者の犠牲の上に成り立つ自分の存在を自覚しつつも、なおその中で、できる限り「善」を成そうとする。
他者への共感を忘れず、慈しみの心を持ち続ける。理不尽な苦しみを和らげ、互いに支え合って生きようとする。その努力の積み重ねこそが、人間の尊厳を守り、生の意味を紡いでいくのかもしれません。

もちろん、『僕』たちは完璧ではない。どんなに努力しても、悪を完全に消し去ることはできないだろう。
しかしだからこそ、『僕』たちは自らの非力さと向き合い、謙虚に歩む必要がある。自分の存在が世界に影響を与えていることを忘れず、常に自分の行為を問い直していく。そうすることで、少しずつでも、この世界をよりよいものにしていくことができるはずでしょう。

畢竟ずるに、人間の生の意味とは、この「受苦」を引き受けながら、なおも「善」を目指して生きる努力の中にあるのだと思うのです。
これを最もらしく教えとしてあるのは宗教として倫理や道徳、人の生きる規範を提示しているのです。
そのような生き方は決して楽ではないが、しかしそこにこそ、かけがえのない価値があるのだ。宮沢賢治の作品は、そのことを私たちに教えてくれている。彼の言葉に耳を傾けながら、一人一人が自分なりの答えを見つけていく。それが、「受苦」という人間の宿命を引き受ける生き方なのだと、『僕』は考えるところです。

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