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AIという技術で人の死という問題を考える

死ぬことの回避というものは現段階では人間である限り不可能です。

人は生けるときに命の限りがあり死を迎えることがあります。

それは病気や怪我ということもあれば、命をまっとうしてその限りを迎える人もいるのです。

命というものを考えるには生きるということを考えなくてはならなく、死ぬというのは避けられないものであるのに否定的に捉えられ忌み嫌われるものであります。

意識のある生きるという間はとくに気にはしないものの近くの命の灯火が消え掛かっていたり、その意識が変性している人たちの在り方を見ていると命とは時間によってその価値、輝きが変化し、劣化していくこともあるのだというのを目の当たりにすることがあります。

病院で働いていますと、もう意識はない痴呆という人たちに分類される方々の検査や医療行為にあたることがあります。

この際に幾人かは「ありがとう」と感謝の言葉をかける人がいてそれは意識的な言葉なのか、反射で出てくる言葉なのかはもはや本人にしかわからず、受け取り方も当人の問題というものになってくるやり取りがあります。

しかし、幾人かは「殺してやる! 殺してくれ、もう死にたいんだ」という罵詈雑言から絶望における逃避の声を出す人もいるのです。

この変性した人という在り方において他者が「価値」という重みをつけることも烏滸がましいことではありますが、そこにある命はなんなのかと考えることもあります。
もちろん、命を助けることが医療のあるべき姿で生きるということまでの面倒をみる、口出すのはまた違う人の仕事なのかもしれません。

最近はデジタルの技術の進化が著しいものでその先頭がAIと呼ばれるものの分野ではないでしょうか?このデジタルによって死の回避、死の価値というものは変化するのでしょうか

例えば、AIやデジタル技術の進歩によって人間のデータを記憶などにコピーし、デジタル媒体として残すことができるようになったとしても、それが本当の意味での「死の回避」と言えるかどうかは難しい問題だと思います。

確かに、個人の記憶や知識、性格といった情報をデジタル化し、保存することで、その人の一部を残すことはできるかもしれません。しかし、それは物理的な身体を持つ生身の人間としての存在とは異なります。体験や感情、他者との関わりなど、生きている人間ならではの要素は、単なるデータでは捉えきれないでしょう。

また、たとえデジタル化された人格があったとしても、それが本人なのか、あるいはコピーに過ぎないのかという哲学的な問いもあります。

命の尊さについては、技術の進歩によって価値観が変化する可能性はあります。もし死が避けられるようになれば、命の価値は相対的に下がるかもしれません。一方で、デジタル化された人格との関わりを通じて、生きているということの意味や、人生の質についての議論が深まる可能性もあります。

ただ、『僕』は生身の人間の命の尊さは変わらないと考えます。たとえ技術が進歩しても、一人ひとりのかけがえのない存在としての価値は失われないでしょう。
むしろ、死の不可避性を認識しつつ、限りある命をどう生きるかを考えることこそが、人生の意味を見出す上で重要なのではないでしょうか。

技術の進歩と、命や死をめぐる価値観の変化は、今後も議論されるべき重要なテーマだと思います。社会全体で、生命倫理や哲学的な問いについて向き合っていく必要があるでしょう。
人間の価値や考えの在り方を牽引するものが必要でそれは、芸術や宗教といった何かなのかもしれません。
『僕』たちのいま生きている時代はそういう事を考えなくてはいけない時なのかもしれません。

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