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日本の若者と恋愛離れ:令和時代の結婚観と社会的影響を探る

2024年の令和の世の若者はさとり世代、無欲などと云われておりますが、これは明らかなシンボル化、単純化における人間の様式の押し付けでありまして『僕』の考えとしては誤りだと考えています。
そうなった背景を考えれば意を働かすものとしての存在の劣化によって蔓延した病が現代の社会における病理の根本を指し示す1つと言っても過言ではないでしょう。

さて、冒頭文で取り上げました若者の欲の中にはよくよく話題にされる何もお酒,タバコなどだけではなく恋愛もその中に入っています。
本当にこれが失われたかというとそうではないと思います。
やはり前回の話、毎回、このnoteで書いています、マックス・ウェーバー的なる「不安症」の枠組みの中での他人の目を気にしてというものがこの恋愛というものを人から遠ざけているかと考えるのです。

要は、相手に気持ちを伝えるのは断られたらどうしよう、SNSのネタにされるのかな、もしかしたらウザいやつというレッテルを貼られるのではないか、そもそもこんな事してもコスパ悪いしやめたほうがいいのではないか……
列挙すれば他愛もないものばかりですが、カレカノジョら価値観とうものはとても繊細であり変容したものでもあるのです。
これらのつながりを、みなの考える「個人主義」は持たないほうがいいよという生活様式になっているのです。
人には情を働かすことはしても、コスパは悪く何もならない
しかし、物への情を働かすことは「推し」活などと云われ賛美される、連帯感を得られると考えるのです(カッコつきの仮染めのものですが……)

いまの若者は羨望は持たないが嫉妬は持つのです。
いえ、これは少し暴論がすぎるのでしょう。
年寄りも同じようなものですから、いえ人間はそうで日本人はとくにその性質が色濃く見えるというものがあります。
これがSNSという"n"数という大衆が大衆へ文字を使って拡散するツールを得たことでそれが見えやすくなったという面もあるのでしょう。
では、言い換えまして、いまの人たちは「羨望」つまりは憧れというものを持たなくなってしまった。
そう思えるのです。
動画やSNSでその羨望がより身近になることで、あたかも自分がそれを知った気になりそれで終わるという傾向があります。
しかし、それは経験ではなく、その個人に向けられ達成したものではないのですが、その気分だけはどこか"自分ごと"として置いてしまう。

それは推しや何かに傾倒するということが、一種のディズニー化された手軽に手に入る非日常として機能しているのです。
これが自己の同一性を畢竟ずるにアイデンティティを他者と重ね合わせて自分の人生を良しとするこの傾向のなんたるかということであります。
これが個人,個人でまた異なってくるためそれぞれの非日常は人間のつながりを見えにくく、また切り離し希薄にしているのです。
これが恋愛、結婚観というものになっているのではないかと考えるのです。

恋愛、結婚というものがすべてとは言いませんが自分たちが生きるための生活世界つまりは社会というものをよくするための成功とは、イブン・ハルドゥーンでいうのであれば「アサビヤー」ではないかと考えるのです。
これはアラビア語で部族内の絆や連帯感を意味する言葉であります。
はじめは不安定な遊牧民たちの生存をするための意識を高めるものであり、その文明の発展につれて社会への帰属意識や連帯感というものに変化したのです。
しかし、社会が成熟にするにつれて文明は弱体化し、他に支配されやすくなる。
これを防ぐためにも小さい共同体というものを作る。
または人、ひとりが家族、友人、恋人などと最小単位の「アサビヤー」を形成する手段としての恋愛、結婚というものがあってもいいと思うのです。

結婚や恋愛はつながり、それも最も深いところまで知る、つながるというものの人間関係の在り方でもあるということは理解しておいてもいいのかもしれません。
それがないものが悪とはいいませんが、生物として、人という種としての在り方、人間の資本経済という枠組みの中での人間の状態悪さなどをどのようにあるべきか、それは自分のいまの価値観、社会としてはなどと考えてみてもいいのかもしれません。

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