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結婚や恋愛はなぜ揶揄されるのか

結婚や恋愛がここまで、いまの若者たちに嫌悪感を抱かれる、または揶揄され続けるのはそれがいいものであるという印象を抱けないからというのがあるでしょう

メディアで報道されるのは結婚したときのアットホームな暖かさというものよりもどれだけその結婚という強い結びつきから反対の感情へと動き出す一種のホラー映画のような高低差のあるドラマを多く見ることが多くその印象が気づかないうちに心の底にヘドロのように溜まりつつ、またはこびり付いているのではないでしょうか。

このホラーの内容としてはお小遣い制となって惨めな暮らしをしているサラリーマンの男という像であったり、お互いに結婚を通して、子供を通しての老いと幸福感と思いこまなければいけないような家族の些細な出来事への寄り添いによるストレスかもしれません。

その前駆としてあるのは、こんなはずじゃなかったという期待とのギャップや自分の近い人間との比較や知らない他者との比較による羨望というものよりも嫉妬や焦燥感にあるそれであるのです。

これが愚痴となっては掃き溜めである、SNSへ投下されたり近くの他者へと供養されたり
こういうものを目に耳にしていると結婚とはなんなのかということを悩みたくないという決断に至るのです。

これは元々の関係を作らないという選択で、それを自分が諦める理由として、それを使うのかまたは履き違えた自由という利己精神における一時の満足のために使うのかそれは定かではありませんが……

これらを考え、そしてなお結婚というものが人の社会に必要かというと制度としての在り方の問題でもあると思うのです。

その中には自分の両親の関係があまりよくなくそれを見ているからということもあるかもしれません。人それぞれの事情もありますし、このままいけばひとりで生きていくことのできる仕組みとして築かれていない社会のせいだというような意見さえ出てくるかもしれないのです。

このとき、多様性という言葉をどのように受け止めて社会を形成していくのか、人が望む豊かさとしての社会はこの結婚観、恋愛観を通してどのように在るのかということも考える必要がありそうです。

人間の存在そのものがとても価値のあるように考え、人間中心に考えた時の結婚、恋愛というものは機能性を排除した場合、そこには損得が残るのか、それとも意識的な利得というものの外に出るという営みを知ることができるのか。

自分を何と結びつけて考えていくのかということは大切であるのです。

その先が人間なのか、はたまた物なのか、神などの信仰としての在り方なのか
このようにたかが恋愛、結婚観というものをあれやこれや引っ掻き回して考えると色々なことを理解し、または経験としての何かに触れないと答えというものは出しにくいのではないでしょうか。

恋愛や結婚が自分から遠ざけて考えるというのは何も揶揄され、忌み嫌うという姿勢はあったとしても本当のところの気持ちというものはどこにあるのかということも大切なのです。

経済的な理由を、自分の自由な(これはもちろんカッコ付きの物言いになりますが、)生き方ができなくなる、これらをもし免除されるとしたらそれは恋愛や結婚というものが自分の中でどのように変化するのか、そういう事が頭の中で我と結びつけることができるのか、そういうことだと思うのです。

たかが結婚、恋愛という勿れで個人個人の向き合い方などというものもあるでしょう。しかし、これが人生において大切なものになるかもしれないよというものであります。
それは人がひとりでは生きてはいけず、それを補うための機能的な、または生理的なものとしての働きをどのように扱うのか。

これを結婚や恋愛として捉えていけば突き詰めれば功利的であるかもしれませんが、それは人の生きるという在り方に向けられた「功利」だと考えてもいいかもしれません。

現代の方々はどうもその落とし所を少し狭めていたり、ズレているような節があるように思えてなりません。
きっと、これに関していうのであれば単純なものであり、もしかしたら意として言葉に表すことのできないものかもしれません。

そうであるならば、ここまで書いてきた文章を全否定してしまうような烏滸がましい行為を自分で反省するほかありませんが、みなさんはどのようにお考えでしょうか?
一つ、一日に10分でも考えてみてもいいかもしれませんね。

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