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常にあてられる若者の恋愛・結婚への批判について

なぜ、結婚しないんだと批判にあてられる現在の若い方々というのは少々、気の毒なものもあるなぁと感じてしまいます。
メディアでは少子化、晩婚化、恋愛観の変化などと謳われてはいますが、これとして誰もがその事に関して焦燥感を持ち、向き合うかというとそれはありません。

いまの若い方々の言葉のそれぞれを聞いてみると、恋愛はコスパが悪い、リスクが高い、恋愛はする必要があるのか?などと言うこともあります。
これは結婚についても言われ、ひいては子供を授かること、育てることもリスクが悪い、,コスパが悪いというのです。

人間の欲である部分の性欲や人を好きになるという気持ちが経済用語で損得計算のうえで選択するというものに変化しているのは驚きますが……
実際のところはおそらく経済的な余裕のなさ、またその興味が薄れているというのも事実であり、表現は嫌悪感を感じつつも致し方ない事情が背景にはあると言えるでしょう。

それは個人、個人の問題として捉えられる側面ではなく、時代としての背景というものもあります。
戦後昭和については経済的な貧しさはありつつもそれは、目に見えてみんながそうであったという現実があるわけです。

そこに連帯感を持ち、弱者という人たちが団結をしていくことができました。
また、発展途上という国の在り方は数字的にもそして、その纏わりつく空気感でさえ貧しさというものを肌で感じずにはいられずそこからの脱却、またはこれから自分の生活はよくなる、国はよくなるという希望があり生きることができました。

しかし、現在においては誰もがいまの日本をみて調子のいい国とは思えませんし、SNSによって見え過ぎる世界は個人の考えの拡張というよりも唾を吐きかける場所を増やしたに過ぎないようにも思えるのです。
社会の過剰包摂によって誰が弱者かを知ることができず、自分以外はいつも誰かにその"評価"を落とされるのではないかという疑心暗鬼の中に生きるという修羅があるのです。
この状態での恋愛、結婚というものはたしかに難しいのかもしれません。
それは経済的な余裕がないことと成熟社会における人間の在り方の劣化というものに他ならないでしょう。

こんな事を書いている自分でさえもそれにあてはまるわけですから他人事ではありません。
恋愛や結婚、子供もいますが、しかし、その世界にいると言う意味でにおいてのことを指しますが……

さて、世の中の変化の速さや自分という正気を保つための方法としての恋愛や結婚の放棄
これを正当なる自己防衛と口に出してしまえば、何かを語るのは難しいのです。
ですが、その価値観への固執というものもまた変質した人としての生活の営みをときには狭めてしまい、生きづらさというものを抱えることにもなるというのは知るべきで、個人主義というものが万能であるということは思わないことです。

多様性ということばでこれらを忌避するものとするならば、寄り添う理由として多様化もあって然るべきで
個人の命や生活は決して、その中心にあるべきというものでもないのですから
退屈な人間がやる事かもしれませんし、役にも立たないかもしれませんが人生を少しだけ良くするためにも自分の恋愛、結婚観という寄り添うものについて考えてもいいかもしれません

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