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令和労働価値観について

労働というものは不思議なもので、本来は人が生きていくために行う行為であるはずのものが"過労死"というように労働が人を殺すこともある。

日本においてはこれがさもあって当たり前のように日常に溶け込んでおり、ニュースで取り上げられてその酷さに声を揃えて批判の声をあげるも誰もが自分ごととは考えないようで他人事の範疇で終わってしまう。

そんなプロレスを楽しんでいるような節さえニュースからSNSを見ていて感じるのは『僕』だけではないはずで……

生きるはずの労働と労働によって人が死ぬこと、過労やいじめ、ハラスメントというものに回帰しその事象や原因は認知していても、生きるための労働と死と隣り合わせの労働は揚棄して存在しているのです。

このアウフヘーベンには暗黙の了解として存在を許している日本人の不思議さは労働、仕事の価値観をどのように考えているのかということをいま一度自分が考える必要があるのではないかと思うのです。

生まれざなりしなれば
この嘆きを知らないものはこの労働においての揚棄を孕むことを承知していて人間獣として生きている自覚を持たないのではないかと思うのです。
ではゲーテやニーチェのような超人というには少し行き過ぎるものかと考えるのです。

日本においていうのであれば宗教を持ち得ないため、共同体としての価値規範、規律というものをみなが同じようなものとして共有することができません。
言うならば、空気、世間という風潮がこの規範というものを築いてきたようにも思えるのですが、さっこんの日本においてはノルムの喪失というものを感じずにはいられないのです。
その問題として表出しているのがこの労働についてのアウフヘーベンであると思うのです。

では、このノルム(規範、規律)の喪失はなぜ出てきたのかと考えますと、それは個人というものの在り方の変化に他ならないと考えるのです。
個人というものの在り方は人間中心としての中に包摂され存在し、その利益の最大化をよしとする価値観へと移ってしまっているように思えるのです。
それゆえ、人のための利他精神というものは考える余裕がなく個人というものを過剰に期待してはいるもののその万能さはないことにいまだに気づくことなくいるのです。
これが疎外として働き人と人の間に溝を作るようになっていると思えてならないのです。

あの灰色の労働を燃やせ
人を思いやる、労働においてどのように人を助け貢献するのかというのは、個人の利得として資本の価値として置換されていき個人は堕落していることにすら気づかないのです。
労働の意味を考えるということは無意味かもしれませんが、それに目を向けることで無意味なものは意味のあるものに輪郭を帯びてその意味を持つのです。
『僕』たちはこの労働の価値というものをどのように考え、向き合うのかをいま一度考え直す機会が必要なのではないでしょうか

⬛︎労働を考えるためのキーワードとして

- 生活のため
 - 生きていくために必要なお金を得る
 - 家族を養う

- 自己実現・やりがい
 - 能力を発揮し社会に貢献することにやりがいを感じる
 - 達成感を得て自分を成長させる

- 社会とのつながり
 - 様々な人と関わり、社会参加の一形態

- 経済的な安定・向上
 - 趣味や貯蓄など、収入で生活を豊かにする
 - キャリアアップによる収入アップを目指す

- ただし、お金のためだけでは働くことを苦痛に感じる場合もある
- 自分の価値観に合った働き方を見つけ、やりがいを感じることが理想

- ディーセント・ワーク(働きがいのある人間らしい仕事)の実現が重要
 - 適正な報酬、安全で健康的な労働環境、ワークライフバランスの確保など

- 働くことは生活の糧を得るだけでなく、自己実現や社会参加の手段
- 一人一人が自分なりの働く意味を見出し、働きがいを感じられる社会を目指すことが大切​​​​​​​​​​​​​​​​

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