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恋愛・結婚とはそう崇高なものなのか

現在においては結婚や恋愛が崇高なものであるというような謳い文句はメディアでも国でもいいません。
しかし、ひと昔前はこの恋愛や結婚があたかも人生のゴールであり、人としての人生の勝者のトロフィーのように持て囃された時代もあったのです。
今となっては、この崇高な謳い文句の代わりに少子化(子供がいないと国として力が失われていくよ、マーケットの縮小が起きるよ、ひいてはお年寄り方々御高齢者の年金は崩壊していくよ)という意味を含むような損得感情への付着としての恋愛、結婚の推奨となる時代にいまはあるのです。

このようなわかりやすいキャンペーンをうたれて、さぁどうぞ、皆さま結婚してくださいなんて言われるのですからみなさんが結婚したいなんて思わなくなるのも当然なのかなと思うのです。
現在においては恋愛、結婚の意味はあるのかと考える人も少なくないようです。
意味があるかないかを問うのは少し的外れだということは言っておきたいことのひとつです。
その理由としては"意味"というものは無い物に自分で付け加えるものでありますから、はじめから求めるものではありません。
それは違うというのであれば、それは"動機"と自分の気持ちや思考を置き違えているということを言っておきたいと思います。

恋愛、結婚というものはいうならば人生のイベントのひとつに過ぎず、それに過度な期待を寄せることも違いますし、綺麗なものと夢を見るのも違います。
だからと言って、自分の自由な時間を奪い去るものでもなければ、苦しめて自分の人生を毀損するものでもありません。
いえ、これらはすべてあり得ると言っていいのかもしれません。

人生とは狂人の主催たるオリンピックの大会のようなものであります。
人生を闘いながら修羅を駆け抜け、ときにはそのホームに戻り、自分の心を落ち着かせ癒す。そして、またその狂人の野に、荒野に駆り立てられるように向かうのです。こういうゲームに莫迦莫迦しさに憤慨を禁じ得ないような人はこれを気づかないようにするふりをするのです。
それは「推し」、または自分はそういうのに興味がないというものでもあるかもしれません。
が、本当に興味がない場合もありますが、人はひとりでは生きられませんし、歳を重ねるとそれが顕著に表れるので自分で気づくことも少なくありません。

これにシラけることでの自殺というものを選択するのも一便法のひとつでしょうが、あまりオススメできるものではありません。
狂人の世界にいるあなたもまた狂人なのです。
そんな真面(まとも)な人間になれるのであれば、そこにはまた違う視座の世界がきっとあるでしょうからそちらに行かれることを勧めます。

つまりは、多くの人間が生きることを選択するでしょうから申し上げるならば、人生の競技場に踏み留まることを胸に思ふのであれば創痍を恐れずに戦わなければならないのです。
これが人生なのです。
そして、この今まで書いてきた人生のそれに恋愛や結婚は内包されているのです。

さて、小難しい言葉を使ってはスノビズム的な浅哲かぶりな文章かと思う方もいるかもしれませんが、そのようなことを考えていただけるのであれば、人生という荒野を戦いぬくためにどのような狂人であるべきかを一考してみればいかがでしょうか?というお話しであります。

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