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俺の青春の最後の燃え滓はあの丘の上に埋めてある

 昨年サービス終了したボーダーブレイクの、さらにその前にサービス終了したアーケード版についての湿っぽい記事を書く。今更である。



 最初に見たのはアキバのレジャランだったように思う。
 戦場の絆がカプセル型のコクピット体感筐体で大いに話題になったのに対してずいぶん小さい筐体だと思った。
 だが、専門学校時代のメンバーと連れ立って遊びに行く機会は減って一人でゲーセンに行く機会が増えていた俺にはフリーイン・フリーアウトのランダムマッチングはとても都合が良かった。

 あのころはアサルトであらずんばブラストでなかった。
 なぜならアサルトでしか使えないAC慣性という不具合があって、みんな空を飛んでいたからだ。
 俺も空を自由に飛びたくて必死に練習した。手触りを掴んだ翌日にバグが修正されてズッコケたのを覚えている。

 ゲーム好きの同僚が多かったので手当たり次第に勧めたが、結局いつも一人で筐体に向かっていた。そのうちネットのコミュニティを見つけたので、そっちに入り浸りながら下手くそなりに楽しんでいた。

 が、ある日上手くなりたいと心底思った。

 当時のクランメンバーに『もっと上手くなってもらわないと困る』と面と向かって言われたのだ。対抗戦で同店舗から出撃した人だったので、まあ効果は覿面だった。今思えばカスのように弱かったし、その日もボロクソなリザルトだったように思う。それにだいぶ舐めきった、人には言えない感じのオリジナルアセン(核爆)で対抗戦に参加していたし、差し引いてもよく追放されなかったものだ。

 ただ、その一言で何かに火がついた。たぶんゲームをやっていて、あそこまで真剣に腕前を磨きたいと思ったのはそれから今に至るまでない。
 嘘ついた。こないだACⅥのランクマでもそう思ったわ。その2時間後に軽量四脚で無限浮遊するガン逃げミサイル機体に叩きのめされて投げ捨てたけど。

 閑話休題。
 決心した俺は、絶対に相容れないと思っていたプレイヤーに教えを乞うことにした。

 『どこぞの室長』である。
 当時、やつはうだつの上がらないSランカーを集めた育成クランを立ち上げていた。まさに俺にうってつけの企画だった。俺はTwitterのブロックを解除してクランの門を叩いた。

 くやしいことに(?)室長の指導は、戦場を右往左往して10分と言う制限時間を無駄に浪費する一山いくらの雑兵を、キチンと勝敗に関係する兵士にするには十分な的確さを持っていた。その正しさ、普遍性は当時のメンバーが何人もSランクからACEに登り詰めたことからも明らかだろう。
 戦闘力が高ければ良いだけではなく、戦場で役に立つ重火の在り方と「役に立っているならばそれがポイントに表れているべきである」という評価軸の考え方は衝撃的だったが、どちらもただただわかりやすかった。

 育成クランへはバリア重火を志望して加入したが、当時、俺は榴弾重火も好きだった――というより真正面からの戦闘で勝てない逃避、あるいはありがちな「マイナー装備を上手く扱える俺への憧れ」だったのかもしれない。ともあれ――紛いなりにもその逃避行動で培った榴弾の理論や経験が、俺のクランでの立ち位置を妙な方向に転がしていった。
 クランの戦術上、「榴弾砲」を扱える人間を必要としたのだが、経験者が俺の他にいなかったのだ。必然的に対抗戦では前線でドンパチするのではなく、高台でうんこ座りして前線を炙っている事が増えた。
 もちろんこれについても室長の指導がガッツリ入ったので、育成クランに入る前と後ではその実力は雲泥の差である。育成クランより平均ランクが上だった元いたクランの対抗戦でも、これについてはしっかり活躍できたと思っている。
 末期ごろには室長が俺のことを本当の上位ランカーに向かって(酔いもあったろうが)『この人、マジで上手い芋榴弾』だと紹介してくれたことがあった。これが俺にとっては何よりも輝かしい勲章である。

 一方全国対戦ではバリア重火か支援しか出さなかった。
 俺は某絵師のようなごんぶと神経をしていないからだ。例えるなら俺は太陽スフィンクスの原尾みたいなもので、壁がしっかりしてないと活躍できる榴弾使いではないと対抗戦を通して理解した。もちろん、バリア重火も支援も大して上手くないので、無駄にCPを溶かしている余裕はなかった。
 それでもちゃんとランクは上がったのだから、もちろんバリア重火としての戦闘力だって上がった、はずだ。
 まあロックばっかりは最後までガッバガバだったが、それでもなんとかなったんだから許してほしい。蛾王や栗田にはなれなかったが、十文字くらいにはなれていたと思いたい。

 本当にこのゲームにのめり込んだ。
 仕事の後にゲーセンに寄り、流れる「蛍の光」とともに帰るのは当たり前だった。始業が11時の会社にいたころ、開店でゲーセン行って3試合(だいたい30分)プレイしてから会社に向かったこともあった。
 対抗戦当日、熱が出ていたので、冷えピタを貼って出撃した。ニット帽で隠したつもりだったが同店出撃したクランメンバーからはバレていたらしい。コロナ禍前で良かったと思う。
 今だから話すがユニオンにアップデートされた日は午前休を取ってゲーセンに行った。採掘島の鉄橋の上から群がるドローンにリムペを撒いていた記憶がある。

 いろんな所へ行った。
 地方遠征こそしなかったが、生活圏を少し飛び出してゲーセンを探した。クレジットの安い店、無制限台のある店、空いてる店、録画設備のある店。会社から近い店。
 隣駅のゲーセンで隣の台に座ってた芋砂とTwitterを介して仲良くなった。互いに第一印象で「うわ芋がいる」と敬遠していたのは笑った。

 多くの対抗戦をやった。
 土日に各一回は当たり前。ダブルヘッダーで一日中ゲーセンに篭ったりもした。
 オフ会の日程に対抗戦を合わせて、アキバの今は亡きGIGOで筐体を10台借りた。参加メンバー全員がその場にいるとんでもない対抗戦をやるためだ。不参加のメンバーが後ろからやいやい口を出していたが、イヤホンしてるし思ったより何も変わらなかった覚えがある。確かこれは「相手クランに悪いから」と箝口令が敷かれていたと思うがもう時効だろう。
 メンバーの一人がランク限定の大会を開いてみんなで乗り込んだ。半年くらいかけた大会になった。その決勝は今でも覚えている。決勝戦は日曜夜だったにも関わらず、その日俺は休日出勤で恵比寿にいた。普通に退勤できれば問題なかったそうもいかなくなったので、上司に事情を話し一時間だけ時間をもらって駅前のゲーセンに駆け込んだ。優勝の余韻もそこそこに仕事に戻って会議に出た。・・・決勝戦の内容関係ないな?

 多くの人に出会い、別れた。
 クランメンバーの多くは東京にいたから、必然ゲーセンで顔を合わせることも多かった。そうでなくとも夜な夜なDiscordに集まっては誰かのプレイ動画を肴に盛り上がっていたから、ゆるく友だちが増えた。
 もうボーダーブレイクは終わってしまって、みんなそれぞれ違う方向に歩いている。何人かはTwitterで今も繋がりがあるが、仕事の忙しそうな奴もいれば、何やら不穏なことを呟いて消息を絶った奴もいる。喧嘩別れこそなかったのが幸い(一人いたけどチワワに噛みつかれたようなものだからノーカン)だ。今後もみんな幸せであればいいと思う。

 俺は上記の大会から少しして、鬱をやってプレイ頻度を下げてしまった。
 病と薬、どっちの影響か、はたまた他に要因があったのかはわからないが、上手くなりたいというあの熱量がわからなくなった。「画面の向こうの対戦相手を殺してやるぞ」と言う攻撃性を真剣さに変えてゲームと向き合うことができなくなったのだ。
 とはいえ、対抗戦に呼ばれれば榴弾を撃ったし、意地でクラン内の目標とされたランクまでは上げた。
 鬱の症状はは一進一退で、それでもだんだんとゲーセンから足が遠のき、そうこうしているうちにアーケード版のサービスが終わることになった。周りが記念の金属製ICカードだの最後の対抗戦だの言っている中、俺は自分の態度を決めかね、宙ぶらりんのまま全てを見送った。家庭用も、結局やらなかった。
 あの頃、俺は間違いなく二度目の青春を送っていたと思えるくらいに充実していた。その感傷を手放したくなかったのだと思う。

 だからこの文章も何かに区切りをつけるとかそんな潔い話ではない。今も持て余すあの日々の思い出を、旧市街地を見渡すあの丘に埋めて墓標を建てるようなものなのだ。


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