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国際女性デーに寄せた、私の想い。

3月8日は国際女性デーらしい。

私には関係のないようで、関係する問題であると思う。

2年前の2月、私は性別適合手術を受けた。

その4月下旬には、家庭裁判所から性別変更がなされた。

とはいえ、法律的には「女性」なのだが、果たして本当に私は尊重されるべき女性なのだろうか。

多分、現状は尊重されるべき存在として認められていると思う。

でも、確かに手術という苦労はしたものの、苦労を価値にして私がより尊重されてよいのだろうか。

市井の「女性」たちはおそらくもっと苦労をしている。

周期的に身体的な苦しみもある。

男性と性関係を持ったら、妊娠する可能性もある。

筋力だって男性と比べると強いとは言えない。

賃金だって、就職だって、価値を下げられたりもする。

正直、苦痛に耐えていれば、私は味わうことが無かったことも、更にはこれからも味わうことのないものもある。

ある種、高い下駄を履かされてきたと思うし、今でも下駄を履いているとも思う。

下駄を履きながら、屈んで下駄を履ていないふりをしているだけ。

滑稽だろう、笑ってくれ。

そして、笑い飛ばしてから、下駄を履かずに足を痛めている人たちのことを尊重してくれ。

私は、仕事の物理的な大変さに関して、男女で制度的にまで過剰に分業することに関しては、あまり賛成的ではない。

それは、職場の男女比に大きく左右されない職場にすべきであるとも考えるからだ。

とはいえ、身体的な不利さを抱えていることは紛れもない事実だ。

その部分は、業務の基本を、女性基準でこなせるようにすれば、当然に男性も楽に仕事ができるようになるとも思う。

先日、物流倉庫の仕事をされている方で、「女性のスタッフに配慮して、きつい仕事や残業を引き受けているが、私は何も女性から報われないし指一本触れられない」という男性がいた。

率直に、下心が気持ち悪いと思った。

私自身も移行中にほぼ同じ業種の経験があるが、むしろ私は、男性の身体を持っているからこそ、わからない苦しみを尊重する方法として、物理的に大変な作業を引き受けたりなどはしてきた。

申し訳ないけど、このように、「心が女性」というのならば、より「わからない苦しみ」を尊重できるべきではないだろうか。

まあ、私は「心の性別」なんてものを全く信用してすらいないが。

何故、身体からジェンダー問題に至るまで、少なくとも平和な世の中であるならば苦しみが多い女性がいるのに、「心の性別」として、それを矮小化されなければならないのだろうか。

また、近年の「フェミニズム」にも、とても辟易とする。

「フェミニズム」を勉強して、「フェミニスト」であることがさも社会的に正しいことになって、自分たちが社会的に正しい「フェミニスト」であるために、本来的な女性の尊重からかけ離れたことを「フェミニズム」とされていたりして、本当に嫌悪感がある。

「フェミニスト」であるからと言って、社会的な地位が守られるとかおかしいし、そんな小さな地位欲のために「フェミニスト」でありたいとか、差別的過ぎて吐き気がする。

本当に女性を尊重すべき価値観が、全く薄れてきているし、挙句は「トランス女性」なんて定義を持ち出して、それこそが女性だから?ふざけるな。

確かに、性的少数者であるゆえ、社会的に差別を受けたりすることはある。

でも、それとこれは、全く別の問題でしょう。

地位欲にまみれた男性の地位のために、フェミニズムがあるわけじゃないんだ。

「女性」としての苦しみから、目を逸らさせようとしないでくれ。

少なくとも身体の苦しみや、性機能に関わる部分の恐怖に至るまで、ほとんど気にすることなくヘラヘラと生きられる男性と同じような、安心できる生活をできるようにしてくれ。

その上で、賃金格差などの部分に至るまで、尊重されるようになってくれればなお良い。

これが私が「トランス女性」として、今日の国際女性デーに訴えたいことである。


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