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女性の尊厳とトランスジェンダーについて考える。

昨今、トランスジェンダーの尊厳と、女性の尊厳に関する、様々な社会的問題に関して、様々な方々から、よりオープンに語ることができるようになってきた。
以前は、そのような議論すらすべてトランスヘイトであるとして、議論することすらままならない状態であったことは、進歩ではあると思う。

しかしながら、日本の司法に目を向けてみると、トランスジェンダーと一般女性の安全を含めた尊厳に関することに、当事者である女性を除け者にするという、司法としての役割を放棄した、とても残念な判決が下ってしまったことも確かだ。

さて、私は日本国内の法律に則って、外科的手術を行ったうえで法的な性別を変更したトランス女性当事者である。
しかしながら、今となっては、れっきうとした女性であるかのような、トランス女性も女性であるなどと言う言説に関しては、私自身にすら疑念の念を向けている部分もある。
そんな中で、「女性の定義を守る会」という団体を作り、活動している方が何人も社会に向けて、トランスジェンダーという曖昧な概念で、女性の安全や人間としての尊厳が脅かされることを懸念しており、もう一度身体的な性別の定義に戻そうという考え方の人たちであると、私自身は解釈しており、主義主張の違いはあるものの、その活動に対しては私自身は賛同したいと考えている。

トランス女性の性加害性について考える。

ところで、この記事を執筆している数日前のことであるが、「心は女性」として、公衆浴場の女湯に入り、逮捕されたトランス女性と考えられる被疑者がいた。
一部のトランス女性やその支援者は、性加害的な事を行うものはトランス女性ではないと言うが、私はそのような人も含めて、私と同じトランス女性であるとも考える。

これは私の学生時代の性被害の話になるのだが、高校2年の時、私は通学中に立ち寄ったトイレで、女性装をした男性から性被害に遭った。そのことに関しては、他人に話すことに関して、もはや笑い話くらいに昇華してもらわないと、未だに忌々しい記憶として心理的に影を落としている事だ。

しかしながら、女性装をして性的興奮をするということはミックスバーなどで女装の方からも話を伺ったことがあるが、至って普通のことであるらしい。
また、女性装から更なる性的興奮を求めて、女性ホルモン剤や男性器切除に至ってしまう例も、比較的珍しくはない例であると、女装コミュニティに関わったことのある方から伺った。
また、女性装を趣味とする方も、トランス女性とされる方も、女性に恋愛志向や性指向が向かうことは珍しくなく、ごくありふれたことである。現に私自身もバイセクシュアルであることは自覚している。

これらの事実を並べた際に、社会的統計を出すまでもなく、女性に性加害性が向くトランス当事者の存在は、ほぼ明確に示されるのではないだろうか。

それを無視した結果、海外では様々なトランス女性による女性への性加害事件が起きていることも事実であるのだが。
このことをトランスジェンダーに関わる問題として議論できない方がいるとするならば、私はたとえその方がトランスアライ(トランスジェンダーへの理解者)を名乗っていたとしても、はっきりとトランスヘイターであると言いたいと思う。

その理由は次の段落で説明したい。

身体女性の尊厳無くして、何がトランス「女性の尊厳」であるのか。

さて、議論すること、反論することが社会的に可能になってきたとは申したが、「トランス女性は女性である」という社会運動はいまだに活発である。
ここで私は問いたい。トランス女性の「女性たる尊厳」とは何なのだろうか。

先ほどの段落で、トランス女性の性加害性について、説明や考察をさせてもらった。
しかしながら、性加害に対する安全だけではなく、そもそもの話として、他人からの性的欲求を向けられたくないという気持ち、また同姓でももちろん尊重されるべきことではあるが、異性に対して裸を見られたくないという欲求や、異性の性器を見たくないという欲求は、普遍的なものとして尊重されるべきではないのだろうか。

性転換することに関して、トランスではない一般的な男性によくある考えに、女になったとしたら裸が見放題になって興奮するというような話がある。
ただ、同じようなことをあろうことか、その欲求を煽るかのように、女湯で裸が見放題だぞと煽るような動画を投稿してしまった愚かなトランス女性も存在することは事実なのであるが。

ここで私は考えたい、このような形で、トランス女性によって侵害されてしまう女性の安全権や尊厳がある。これも当然立派な女性の尊厳ではないだろうか。
トランス女性自身の手によって脅かされてしまう「女性の尊厳」があるのに、トランス女性に同じ「女性の尊厳」が存在しうるのだろうか。
私は訴えたい。身体的な女性の尊厳が脅かされる可能性があるならば、私自身を含めたトランス女性に、女性の尊厳など存在しえないことであると。
また、もしトランス女性自身の手で女性の尊厳が奪われることがあるのならば、その時点でトランス女性が持つ女性の尊厳は一切否定されてしまうだろうと。

故に、私自身の信念として、トランス女性によって身体的女性の尊厳が脅かされることがあるのならば、いつだって少なくとも私一人の女性としての尊厳はおろか、女性として社会に生きる理由など全て剥奪してかまわないと考えている。

しかしながら、今の社会においては、トランス当事者と様々な人が共存しなくてはならない社会である。
そのような社会であるのに、「女性」という存在において、トランス女性の尊厳ばかりが尊重され、それによって身体的女性の尊厳が守られないばかりか、トランス女性の手によってその尊厳が奪われるのであるならば、それは共存とは言えないだろう。

私は、最大限女性の尊厳が守られるべきであると考えるし、その中の一部を、トランス女性にも享受させることだけで充分であるし、女性の尊厳がしっかり尊重されてこそ、トランス女性も女性としての尊厳を得ることができると私は考えている。

トランスへの対立や分断が進むだろう社会へ。トランス当事者として何かできないだろうか。

既に緩やかに、これからは急速に進んでいくであろう、トランス当事者への社会への実質的な分断と、トランス女性と身体的女性との対立。その理由の一つとして、当事者である身体的な女性のたくさんの小さい声を無視して、自分たちの正義や社会的功績、名誉のために、働く愚かな人たち、特に男性中心社会によって作り出されてしまうのだと思う。
これはトランス女性だけの責任であるべきでもないのだが、恐らくその被害は、平穏にひっそりと生きてきた当事者に向けられるものでもないのかとも考える。

その先に待っていることは何だろうか、恐らく今までこの問題に興味を持たなかった人々による、バッシングや当事者への苛烈な差別や迫害だろう。
そのようなときに、恐らく今までトランスジェンダーを支援すると言っていた方々、理解を示すと主張していた方々や団体などは、当事者がそれだけ残酷な差別や迫害に遭おうとも、一切見向きすらしないどころか、それに加担する人も多く存在するようになると考える。
なぜならば、現状として間違った理解や、当事者の本当に求めることを無視した、歪んだ正義が、トランスジェンダーのためとして行われている。その正義が裏返れば、とにかく社会的正義でありたい人は、当然が如くその正義を振りかざして、トランス当事者への迫害を場合によっては意欲的に行うだろう。
また、そのような頃には、性自認などと訴えて、外科的治療やホルモン剤投与などに異を唱えていた、いま当事者である人も、また別のことを主張して、当事者を迫害する方に、正義を求めて加担するかもしれない。

遠い未来の話かもしれないが、数年後の近い未来には起きないこととも言えない。

ならば、そのような未来を少しでも食い止めるにはどうしたら良いのだろうか。私にはその答えを出すことはできない。しかしながら、これからどんどん溜まっていくであろう、今までこの問題に対して大きく興味を持たなかったはずの人々からのヘイトを、そのような状況においても当事者である人が回避する方法の正解なんて、そんな未来のことはわからない。

まず、何が本物のトランス当事者であって、何が偽物のトランス当事者であるかすら、定義によって変わる上に、そもそもトランスという行動、現象に対して、明確なエビデンスすらない。
ならば、性加害をする者はトランス当事者ではないというような、トランスへの責任逃れをするようなことすら、やめるべきではないのだろうか。そのようなトランス当事者がいようとも、それぞれ自分自身で信用を築き上げるしかないのではないか。
何故なら、自分とほぼ近い属性のようなトランス当事者が、もし性加害を行い、その行為が世に知れ渡った場合、言い逃れなどできるはずがないからだ。
トランスはそんな悪いことをしない、などという逃避には、間違いなく限界が訪れるはずだ。

ならば、トランス当事者としてできることは何なのだろうか。

まずはトランス当事者として、当事者自身に矢印を向けて、そのような当事者による性加害があることを認めたうえで、明確にNOを訴えることではないだろうか。これだけでも、同じ当事者である故の当事者としての尊厳というものは弱くなるかもしれない、けれども、それ以上にトランス当事者が移行した性別としての尊厳を自ら否定することは、少しだけでも止めることはできるのではないだろうか。
これは簡単な事ではないことは私自身も理解している。そもそも移行した性別として静かに生きている当事者が、当事者を名乗ること自体が困難である。
しかしながら、当事者同士の分断によって、目に見える当事者の蛮行で社会への信用を失うよりは、ひっそり生きている当事者が声を上げる必要はないが、何か声を上げられる当事者が、それを訴えて少しでも信用を持てる存在も見えるようにしなければならないのではないか。
また、できるならば、トランス当事者から発信して、トランス女性含めた身体男性からの、トランス男性含めた身体女性への性被害に関して、身体女性の尊厳を訴えるべきであると思う。可能であるならば、被害者へのケアに関して、被害者に直接接触することではない形で、金銭面含めて支援する形を、とタンス当事者からの発信でできるならば、より良いのではないかとも考える。
私の考え方では、トランス男性も身体男性から性加害を受ける危険性は十分にある上、より男性コミュニティに近い場所にいる分、その危険性は高くなることも否めないだろう。故に、もし私自身が動くことにあるならば、トランス男性の性被害に関しても、同様に訴えたいと思う。

このことに関して、トランス女性による性加害を大々的に認めることにになれば、トランスヘイターに加担して、トランスヘイトを勢いづかせることになるという方もいるかもしれない。
しかしながら、私がそのようない人とも話している中で、トランス女性による性加害を絶対的に否定している人に比べて、多様なトランス当事者の抱える困難や苦しみに関して、しっかりと理解している方が多いように感じる。
だからこそ、私はもし味方につけるのであれば、よりそのようなことに対する知識を持っている、今ヘイターと呼ばれている方々に味方になってもらいたい上、私は一定の知識による深い理解を持つうえで、現状の権利活動に関してNOを唱えている人を、私は後押ししたいと考えている。

最後に

この記事に関して、どんな意見でも、反論でも異論でも賛同でも構いません。何か意見がある方は、気軽にコメントしていただけたらと考えます。
また、X(旧twitter)やインスタグラム、FBなどでご感想を書いていただければ嬉しく思いますし、ブログやテキストサイトにURLを添付の上でしたら、感想ご意見歓迎いたします。
私は何よりも、身体女性の尊厳がより守られることと、多様なトランス当事者への理解が進むことを、私は願っておりますので。





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