めぐみんさんの駄文日記。メリークリスマス。

これは遅筆な私が書いては決して一向に進まない記事の内容にも被ることなのだが。

トランス当事者の、当事者間での同調に偏りすぎて、露悪的に本来埋没すべき攻撃してしまう現象。これって何とかならないのだろうか。

とある商業誌にも載せているトランス当事者の漫画家が、過去の漫画で攻撃的な内容を描いていたり、最近でも女性蔑視的な事をツイートしていたりするのを見て、このコミュニティに依存して、公人に近くなった今ですら、虚しい慰め合いをしてしまうのって何だろうなと思う。

ただ、私も正直に言えば気持ち自体は理解できなくもない。その矛先が身体的な同性に向けてという違いだけであるが。

ホルモン剤を使用した性別移行を始めた頃から、仕事を変えて地元の工場で普通に男性として働いていた。

しかしながら、その勤め始めてから3か月ほどだろうか、毎晩辛くて泣くようになった。

男の身体に生まれて、自分を男だと疑うことなく信じれて、そして人生を楽しめる姿は、強い嫉妬を生む、非常に私にとっては美しくて理想的な光景だった。

移行を始める直前の私が、自分の性別というものに強い疑念を持ちながらも、自分を男だと思い込んで、自分の思い描く男の子としての人生を歩もうと、毎日大好きなシティポップを聴きながら、強い不安と戦っていたからだとも思う。

当時「サブカル」と言われる層に流行っていたシティポップバンドは、私にとっては最高の麻薬だった。聴いているだけで、自分はこんな素敵でオシャレな男の子にならなきゃだし、きっとなれるんだと思った。

しかしながら、その麻薬に耐性が付いたばかりか、大きな副作用と共に私を苦しめるまでは長い時間は必要なかった。

それでも、シティポップはそんな麻薬の効能が薄くなって、副作用で苦しむようになってからも、今日まで愛しているもののひとつである。

しかしながら、効能よりも副作用のほうが大きくなったとはいえ、シティポップを聴いたときの私に対する効能が完全に無くなっていたわけではなく、男性として働いている当時は、麻薬の見せる幻想に見合うことができず、何なら逆らっている気になっていた私にとっては、麻薬が見せる光景をそのまま楽しんでいるように見える同世代や年下の男の子は、嫉妬の対象にならないわけがない存在だった。

なんなら同じ存在に私自身もなりたいし、身体などの自分の性別に強い違和感を持たせて、全てが崩壊してしまえばいいのにとか普通に思ったりしたし、私ですら味わったことのない、女性に起こる身体的な苦しみや、それに伴う様々な心配も、全部味わってしまうようになればいいなんてことも思った。

そして、同じようなことを今でも思うことが無い、というわけでもない。

見方に拠れば、私はトランス女性当事者でありながら、トランス男性的な要素も併せ持っていること自体は自覚している。

しかしながら、今女性として生きている故に思うのだが、本人がどのように望んで生きてきたかどうかはわからないが、それなりに苦労して移行して、その性別として生きていく選択をしたのに、いつまでも恨んで、加害的な発想を当事者に向けて発信して、その発信が女性に批判されると反論し、お仲間の当事者が一緒に反論するという愚かさ。

そして、批判する女性を見下したような発言を、曲がりなりにもオファーを受けて自分の作品を商業の場に載せるといった決断をしながら、不特定への発信をしているという自覚が無いことへの、同じ不特定の人へ商業という形ではないものの、発信をしている者として、自分に快く思わない人がいることは当然であるという自覚の欠如。

そこまでしてトランスしたあなたの意義って、一体なんだったのだろうか。

男に生まれたはずなのに、男性である身体にも、集団にも、文化にも、全て違和感と共に適応できなくて、身体の違和感を無くすついでのように、社会的にも移行をして、それでも男の子という文化に憧れを持って、妬んでいる私も相当に愚かなんだと思う。

けれども、愚かなりに、その私が目を輝かせて見ていたライブハウスなどのステージの光景や、大好きなサッカーのピッチに立つ選手たち。その人たちから貰った感動は、私にはないことにはできない。

初めて行った宇田川町、モッシュピットの快感、でもライブキッズよりもサブカルに行きたくて、気づいたらシティポップを嗜んでいた、野外フェスも本当に好きだったな。サッカーはまた違うかも、地元にサッカークラブがあったから、たまたま見るようになって、様々なクラブの試合を見るようになって、そういえば旅行好きだったから日本各地に行くことにためらいもなかったな。

当然そこでたくさんの友達もできた、男女問わず。しかもそれは本人たちはどう思っているか知らないが、多分移行前の友達なら私のことは男友達と思ってくれていたと思う。

そんな私の友達、特に男友達のことを、顔をズタズタに引き裂きたいとか、残酷に壊してやりたいとか、そんなことは思ったこともないな。当然女友達だろうと同じ。

ただ、それは移行を始めてから仲良くなった当事者としての友達よりも、ライブハウスやスタジアムで知り合った昔の友達や、移行後知り合った当事者であってもそうでない価値の友達のほうが、やはり私にとっては大切だからだと思う。

いやむしろ、私がトランス当事者であろうとなかろうと、同じ価値観で何か楽しめる友達という存在があるほうが、より沢山の広い世界も見渡せると思う。自分の存在を誇示する必要もそれほどないし。

なによりも、たとえ法的に移行していようとそうでなかろうと、女性の中でも特別な尊ばれる女性にあるということはないでしょう?お互いに別々の苦しみを持っていて、それはそれぞれ理解もできない。そこに優劣付けたところで何にもならない。

確かに、お互い理解できできないことに関しては、私もいつまでも解決しないのに、いつまでも悩んでしまう問題である。そしてトランス当事者はそのことにずっと悩まなければならないことは確かだと思う。でも、それを女性という存在の問題として持ち込んだところで何になるというの?

どれだけ身体違和が強くて苦しんでいたとしても、やっぱり結局自分自身の身体を完全に無視することはできないし、でも身体違和が弱いからと、自分の身体を無視して自分が自認する性別のその定義をめちゃくちゃにすることも、やっぱり私は違うと思う。

LGBTQの権利活動家が「性別は二つだけじゃない」とか、トランス当事者の一部が「身体基準で性別を定義しないで」とか言ったところで、実際にISの当事者以外で、二分される性別を背負っていかなければならないのは事実だし、正直、理解できないものは理解できないというのが正解だと思う。

けれども、生理のある男性もいるからその苦しみを理解しろとか、女性は即ち月経があるというのは差別的であるとか、そういう風に滅茶苦茶にされるのは、トランス当事者である私ですらもううんざり。男性はトランス男性の月経の苦しみを本質として身をもって理解することができないし、同様に私は月経の苦しみを法的に女性でありながらも理解できない。

そう、私はわからないからこそ、その苦しみをもって女性として生きている人たちに尊敬しかないし、尊重をしていきたいし、自分が自らの苦しみを主張することで、その苦しみを「女性のもの」であるか有耶無耶にすることは、私が最も嫌だと思う、何よりもやめてほしいことでもある。

だからこそ、もう「心が女性」であるとか、そういうことを基準に「女性」を定義しようだなんてことは本当にうんざりだ。

法律の例外規定に認めてもらってるだけの存在で、社会的には確かに胸張って「女性」として生きるしかないけど、結局はどこか後ろめたさというか、かけたピースのことを胸に押し込めて生きるしかない存在だ私は。

さて、今日はクリスマス。

シティポップに憧れて、男の子になろうとした私が、その「シティポップ」とよく定義されて、バンドも自ら「シティポップ」であることに誇りを持つ私の愛するバンドのステージを初めて見たのは、5年前のクリスマスイヴだった。

あれから5年、あれだけあの輝く存在に憧れて、自分自身も真似てなろうとした私は、その志を1年もたたぬうちに諦めて、自分自身を見つめて、今の私は見かけ上は、真逆のような存在かもしれない。

けれども、やっぱりあの日の私も今の私も、同じステージを見て、楽しめるダンスは違っても、間違いなく幸せにダンスをすることはできると思う。

2012年から、毎年何らかの形で、ライブハウスに行っていた私が、ライブハウスに行ってから初めてライブハウスに一度も行かない一年を過ごすこととなった。でも、自分がどうであろうとも、私にはライブハウスで踊るダンスは幸せなものだし、来年こそはまたライブハウスで幸せなダンスがしたいと思う。

そして、来年の今頃、楽しいダンスができたことに喜びを感じながら、またクリスマスを迎えられることを願って。

Merry Christmas.

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