叶わぬ夢と笑った時の表情をずっと忘れない

卒業まで、あと少し

GLAYの楽曲は美しく切なく、そして時として残酷だ。美しいメロディーに返せる言葉がない歌詞を乗せ、それを説得力のあるTERUの声で謳われてしまったら、もう諦めるしか選択肢が見当たらない。
違う解釈をすればよいのか?ストレートに受け止めるだけではなく、言葉の裏側を読み取るとか?いや、このメロディは美しいが、切ない。夢を叶えた人の「これから」が瑞々しく描かれているわけではなく、叶わなかった人が見る景色が描かれている。だからこそ、その映像は華やかな色ではなく、少し靄がかかったような、今でいう「くすみ色」のような色合い。なんとか色をつけたけれど、白黒に見えたとしても大袈裟ではないだろう。それくらい、残酷まで纏ってしまっている。

リリース当時は、自身もまだ学生の身で、しかも分厚い辞書を持ち歩いていたために、この楽曲の1番Aメロが響かないはずがない。辞書が重たくて、学校と家との持ち運びが嫌すぎで、学校にも家にも常備していたくらい。周りには電子辞書を持っている友人もいたが、まだパラパラ程度。ものすごい羨ましかったのを覚えているが、それ以上、自分にとってもありえなくもないシチュエーションに、少し浮き足だっていたのだと思う。
だって、自分の辞書に書かれたメッセージを卒業して数年後に見つけるなんて、しかも書くページがページならば、一生そのメッセージが「日の目」を見ることすらなかったかもしれない。そのメッセージに出会えたことの奇跡を含め、なんどか1本の映画をいているような優しい思い出。それを美しいままでパッケージしておきたい気持ちはわかる(と言い切ってしまうのではいささか気が引けるが。。。)。

ただ、そんな美しい思い出だけでは終わらない。終われない。
最初こそは、アコギとピアノとボーカルで慎ましく演奏されているが、エレキギターが少し不穏というか、心許なさげな音を引き連れてきて、その後にベースが飛び込んでくると、切なさが増長される。
そして、そのメロディに反することない歌詞が、より楽曲の持つ寂寥感を引き立たせてしまう。
卒業とは、基本的には前向きなものであるケースが多い。もちろん、卒業ではないものを卒業と呼ぶことで、ネガティブな印象を植え付けるケースもあるが。しかし、この楽曲は「背」という言葉が多い。思い出に背を向けて、前を向くという意味もありえるだろうが、自身を起点にして、誰かの背中を眺めているような感覚になる。自分は、背を向けられ、卒業の先に思い描いた景色を見出せずにいるのではないか。

ねぇ あれからどれだけの風に かすれた僕たちの声
どれほど強く望んだことも 叶わぬ夢だと笑った

GLAY公式サブスクリプションアプリ「GLAY」

そう、叶わぬ夢だと「笑った」から。
落ち込むのはなく、悲しくのでもなく、悔しがることもなく、「笑う」。
だからこそ、

もう少しだけ友と呼ばせて

GLAY公式サブスクリプションアプリ「GLAY」

高校時代の卒業式の日を思い、泣きそうになる。

#GLAY #卒業まであと少し #辞書のページにメッセージ #事実は小説よりも奇なり

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