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「皆さん、お世話になりました」 ー東映実録路線とリアリティショーー

春日太一さんの『あかんやつらー東映京都撮影所血風録ー』(文春文庫)、ページを捲るのがもったいなくて随分と読み終えるのに時間がかかってしまった。
春日さんのような若い世代で時代劇、否、日本映画をここまで激烈な愛とともに描写し、私たちにその魅力を伝えてくれる人が存在すること自体が、映画史に残る一つの奇跡みたいなものだと思う。私は春日さんの筆致も含めて大ファンで、メディアに登場するときはよく拝聴させてもらっている(宇多丸さんのウィークエンドシャッフルで塩田明彦監督『1999年の夏休み』の魅力をご自身の”百合”論とともに語っているのを聴いたときは、本当にこの人と飲みに行きたい…と心から思った)。そんな彼の著作の中でも(今の所)No.1がこの『あかんやつら』である。

この作品は映画会社の東映が京都に持つ「東映京都撮影所」の創立から現在に至るまでの激動の歴史を描いたもので、日本映画の父・牧野省三から深作欣二まで、東映の歴史を彩ってきた幾多の映画人たちが登場する百花繚乱とも呼ぶべき群像劇だ。まず、一つ一つのエピソードが強烈だ。詳しくはぜひ本書を読んでいただきたいが、ヒロポン注射で徹夜作業を乗り越えたり、実際の炎の中での撮影でカツラが焦げるまで撮影しキャメラマンの目がやられてしまったり、ほかの映画会社からのスター引き抜きでヤクザに襲撃されたり…現在では想像を絶する、しかしあの時代にはきっと当たり前にあった、血潮が熱くほとばしる話ばかり。映画人、いや「カツドウ屋」と呼ぶべき映画狂いな人々の織りなす、大河ロマンだ(これ、本当にいつか東映の歴史を映画化してほしい。『蒲田行進曲』あるいは『アメリカの夜』現代版?大河ドラマでもいいかもしれない)。
春日さんの10年に及ぶ研究の成果に基づいて東映の歴史を見返すと、そこにはある種のパターンが存在する。それは「フィクションからリアルへ」だ。
例えば時代劇は、スターを中心とした勧善懲悪ストーリーから、複数の登場人物が入り乱れ、激しく乱闘する「集団時代劇」へ進化した。若い監督や俳優・スタッフたちの既存映画秩序への不満が、この新しい形の時代劇を生み出したと春日さんは語る。実際、これらの作品はいまみても十分に新鮮だ。特に時代劇で水戸黄門を想起する人ほど意外な印象を持つだろう。工藤栄一監督『13人の刺客』『大殺陣』は僕も大好きな一本で、過酷を極めたという撮影現場を想像できるような、俳優たちの鬼気迫る演技が楽しめる。跳ね返る泥に汚れながらも、必死に役者の集団を追いかけるキャメラは、時に小川紳介監督の羽田闘争のドキュメンタリー(名作!)を思い出させる。同時代に学生運動が盛んだったことを考えると、集団乱闘の持つ激しさこそが時代のリアリティと連動し得たのだろう。
また高倉健のようなスター俳優が中心となり華麗な立ち回りをする「任侠映画」は、組長から子分まで身分に関係なく熱く、激しく、時にみっともなく暴れまわる「実録路線」へ進化した。実録路線で最も有名なのはもちろん『仁義なき戦い』だ。何を隠そう私は『仁義なき戦い』シリーズの大ファン。私が『あかんやつら』を手にとったきっかけも『仁義なき戦い』のエピソードが気になったから。揺れまくるキャメラ、叫ぶ俳優たち、コケながら打ちまくる銃弾、刺され撃たれて見せる苦悶の表情…どれをとっても一級のバイオレンス・アクションであり、圧倒的に「リアル」だ。痛いものを痛そうに見せる、という当たり前だが現代の映画で忘れかけられているこの映画の「倫理」を、深作欣二監督から唯一継承しているのは北野武監督くらいだろう。
ズバッと叩き斬り、スターのキメショットを抜く。こうしたフィクションは若い監督たちによってなんどもなんども否定され、その度ごとに新しい「リアル」が銀幕の中に噴出した。「任侠映画」最後の一本と言われるマキノ雅弘監督『関東緋桜一家』(藤純子の引退記念作品でもある)
では、最後に藤純子が「皆さん、お世話になりました」と言って画面からフェードアウトしていく。こうして、フィクションは引導を渡され、少し寂しそうに画面から姿を消していったのだ。

この「フィクションからリアルへ」は時代を超えて繰り返される、一つの人類学的な身振りなのだろうか。そう思ったのは私が生きるこの時代が「リアリティショー」全盛と言えるからだ。
古くは「あいのり」に始まり、テラスハウス・Abemaのティーン向けリアリティショー…現代のコンテンツは極めて明快に「リアリティ」へ向かっている。映像コンテンツに限らず、SNSやYoutuberなどポップカルチャー全体にその志向が染み着きつつあると言えよう。台詞・映像画角・ショット…どれも極めて「リアル」が漂う演出で味付けされたコンテンツだ。でも、そのリアリティはどこか物足りない。小綺麗に「味付け」されたリアリティだけを美味しく消費すれば良いーーそんな作り手側の傲慢が透けて見えるものも散見される。
ここで一つの仮説を立ててみたい。現代の「リアル」に足りないもの、それは「エロス」であると。メジャーコンテンツから性の「香り/匂い」が剥ぎ取られ、恋愛リアリティショーにも関わらずセックスをしない。お茶の間からセックスが奪われ、ネットの暗闇に身を隠し、むしろそれがユビキタスに蔓延することになったいま、メジャーコンテンツだけがセックスを(精神分析的な意味で)倒錯的に否認し続けているのだ。
セックスなき時代ーー東映はいま、どんな映画を作っているのだろう?その一つの答えが『孤狼の血』だ。東宝の『アウトレイジ』への東映からの返答と評される今作だが、私には東映の名作『県警対組織暴力』へのオマージュに見えた。組織と時代に翻弄される主人公たちからは、あの懐かしい体温や体液が「匂って」くる。冒頭の豚小屋でのリンチシーンが象徴的だ。豚の糞を口に詰め込まれ悶える被害者を、徹底的にリンチするこのシーンから、”俺たちは匂う映画を作る”という東映スタッフたちの叫びが伝わってくるようだ。確かにストーリーはメロドラマ的要素を含んだ、多分にフィクショナルなものだ。そこに表面的な「リアリティ」はない。だが、画面全体から香り立つセクシャルな「匂い」は”本物”ーリアルなそれである。リアリティショー全盛期の現代に、あえてフィクションで「リアル」を主張するその身振りに、私は深作欣二監督への深い敬愛と、東映の歴史へのオマージュを感じとってしまう。この何もかもが白日に晒され、配信され、消費される時代に匂い立つフィクションを世に送り出した『孤狼の血』は間違いなく東映の現在地である。

思えば東映のロゴは、磯臭さが銀幕から滲み出た荒波をバックに私たちの前に現れていたではないか。
匂い立つ磯の荒波よ、もう一度砕け散れ。

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