綺麗すぎる家は緊張する
公園を散歩していてふと気が付いたことがある。
帰ったらシャワーを浴びようと思って、そういえば以前の家ではそんなこと思いもしなかったな、と。
基準を落とした時の、気づき。
私は最近、建てた家を売り、中古住宅に引っ越した。家を売るのは人生2度目である。事務所兼住宅の物件はそこそこ綺麗ではあるものの、やはり古く、造りが古い分掃除も大変だ。
新築を建てたのは7年前で、それこそこんな仕事をしているためか、お客さんがよく来る家だったのでキレイにしていた。
特にお風呂場は、毎回あがるたび浴室の水滴をワイパーで切って出ていた。1回でも水滴を残して出ると、水の跡が真っ白になってしまうほどその地域の水質が悪かったためである。
まるで毎回ホテルの掃除に入る、
あんな感じ。
どうも習慣というのは恐ろしい。1日、1週間、1ヶ月それをやり続けていくと、もう後には引けず、何だかんだで新築〜引っ越すまでのおよそ七年間、風呂を拭いて出ていた。
家族にもこっぴどく言い続け、しまいには泊まりに来た友人もそれが習慣になっていた。「しつけ」は言い続け、やり続けるものだと学んだ。
とにかく自宅はいつもキレイに、キレイな環境は心もキレイになる、とそう思っていたし、自身も気持ちよく暮らしていた。
しかし少しばかりやりすぎていたのかもしれないと気付くのは、基準を落とした時じゃないと分からないのもしれない。
クリーニング業者はとにかく二極化する。
自宅や車は汚くても構わない人と、いつでも業者目線のどちらか
である。
私は後者であり、クリーニング基準値を自宅にも持ち込んでいた、メリハリのない生活を送っていたのだ。
ただ、同じ環境の中にいる間というのは、自分の状態に気づきにくいということでもあり、いわゆる「麻痺」状態である。
大切だと思ってやっていることが、慣れてやっていることが、果たしてめっちゃ大事なことだったんだろうか、と、離れてみて分かるのだ。
「お客様の家をきれいにする」仕事の私がこんなことを言うのは些か問題かもしれないが、最近思うことがある。
あまりに綺麗にしすぎる家は、落ち着かない。
髪の毛1本でも気になる家。
鏡に水滴がついても気になる家。
何かモノが出ているだけでインテリアが崩れる家。
家はキレイだと心もスッキリするし、前向きになる事は間違いない。実際にそうだし、
視界に入る景色が美しいということは、非常に精神衛生上大切なことだ。
明日からの活力にもなるし、自己肯定感もあがる。
ただ今回自分が気づいたのは、
それを維持しようとして極端に気を張り続けたり、はたまた同じ空間を利用する人に対しての圧力になってはいなかっただろうか
ということだ。以前断ったお客様で、極端に潔癖な方がいらっしゃって、こんな事を話しておられた。
「建設業の旦那が汚いから帰ってきてほしくない」
私は何とも言えない気持ちになった。私だって建築関係だ。
お子様がいる気配もないほど、SNSの世界そのままの室内。マスキングテープだらけの水周りや、楽天roomで見たであろうインテリアの数々…
これ以上何もするところないですよ、とべた褒めしてサッと帰った記憶がある。
きっと家族は過ごしにくいだろうな…
そう思ったし、私も実際そう思わせていたんじゃなかろうか…建築関係の旦那さん、アーメン。
今回私が言いたかったのは、決して不潔なことが正しいわけではないし、綺麗好きが悪だとか極端な話をしているのではない。
ただ、家の清潔を維持するにはそこにいるメンバーとのバランスが大切で、
家はゆったりできる唯一の空間であってほしいと思うのだ。
皆喜んでそれをやっているか?
キレイにこだわりすぎて、敵を作っていないか?
汚いの基準は皆が納得できているか?
家族がギクシャクしているのなら、そこを自問自答してもいいのかもしれない。
ではまた!
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