見出し画像

福島旅行記

今の時代は、人の意見はお金を得るため、社会的地位を確固たるものにするために発せられる場合が多い。多くの人は、自分の人間性までをも買収されることを恥ずかしいと思わなくなった。言葉は正直に発せられる場合、本来言葉が持っている大きなパワーを持つが、不誠実な嘘つきが発する言葉は、価値がないのに信憑性がある。障碍者を差別する風潮が未だに根強いのに、良心が正しく機能しないことは障碍と思われず、彼らにとってアイデンティティや人間性を売ることは何の恥でもない。また、そうすることが賢い事であるかのように、社会は嘘つきをもてはやす。不誠実の魅力に取りつかれてしまった者には、真面目で馬鹿正直な人間は本当に馬鹿にしか見えないだろう。社会は金儲けのために嘘つきを増産する。人の価値が社会によって都合が良いか、それとも悪いかという基準で値踏みされ、評価される。私たちは、それが空虚であることを知っている。だが、その基準から逃げてはいけないのだと思い込まされている。その基準だけが人を判断する材料になってしまえば、今のような酷い世の中になってしまう事は決して不思議ではないことに気づきながら・・・


私の誕生日は、3月11日だ。25歳の誕生日までは、私は自分の誕生日は好きなものを買って、ケーキを食べ、家族や友人からもらった誕生日のお祝いメッセージを読むだけの日だった。25歳の誕生日の日、私は派遣会社から割り振られた仕事をしに、丸の内に行った。本屋で体験ギフトのセットを売るという販売の仕事だったが、本屋の担当者から嫌がらせを受けて、本来ならビルの4階の売り場で接客、販売をするはずが、1階の寒いエレベーターの降り口で、体験ギフトのリーフレットを配るだけにしろと言われた。あまりにも寒いので、コートを着ないと風邪をひくと思ったが、仕方なくスーツを着たままリーフレットをお客さんに渡していた。少し働いたら、自分がめまいを起こしたように感じた。疲れていたのだろうかと思ったら、本屋の大きな本のオブジェもぐらぐら揺れている。「地震だ!」と気づき、不幸中の幸いなことに、一階の建物ロビー付近にいたので、ロビーに飛び出してしゃがんだ。ガラス張りの天井だったので、天井がガシャガシャとものすごい音を立てた。ガラスが落ちてきたら死んでしまうと思ったが、かなり強い強化ガラスが使われていたらしく、大きな揺れでもガラスは落ちて来なかった。こんなに大きな揺れなのに、意地なのかなんなのか、サラリーマンの男性たちはカバンを片手に持ったまま、ものすごい揺れの中、二本足ですっくと立って天井を見ている。ベビーカーを押したお母さんは、子供の上に覆いかぶさって逃げ回った。ロビーから出口まで、走ってもかなりの距離があったので、揺れている中は走れなかった。だが、私たちは助かった。


私はその日、たまたま東京に来ていた母と新橋で落ち合い、東京国際フォーラムに雑魚寝した。避難所はテレビを流しっぱなしで、行方不明者の情報を求めるアナウンスを一晩中流し続けたので、津波で家が流される恐ろしい映像を夜通し見て、たくさんの人の安否がわからなくなっていることに悲しみ、夜中に何度も大きな余震に震えた。その時はまだ、福島第一原発で、大きな事故が起きているとは知らなかったし、原発の存在すらよく認識していなかった。


震災から数日たって、知り合いから一本の電話が来た。「福島第一原発が爆発して、東京も放射能プルームが上空にあって危ないので、どこか遠いところにいる親戚を頼って逃げろ」と言う。元NHKのディレクターをしていた彼は、ドキュメンタリー作品を作っても、NHKの上層部から何回もダメ出しをされて、真実からは程遠い番組を作らされることを経験してきたので、アメリカのために原発事故の真実が歪められて報道されていることに気が付いていたのだ。「原子炉の冷却のために、自衛隊のヘリコプターからバケツで少量の水を建屋の穴に撒いたところで、すぐに蒸発してしまって意味がない。ただのパフォーマンスだ。」と彼は続けて言った。最初は原発の事もよく知らなかった私は、そんなに大変なことが起きているとも理解できず、岡山に親戚がいるのに、東京から非難するのはお金がかかるから嫌だと考えていた。知り合いはまた電話をかけてきて、「今逃げなければこれからどうなるかわからないんだ!」と私を脅して電話を切り、それで私は事の重大さに気づいて、慌ててスーツケースに色々なものを詰めた。旅の仕方もよく知らなかったので、トイレットペーパーや長靴、数日前にスーパーでようやく見つけた米など、わけのわからないものまで詰め込んでしまい、そのまま家を飛び出してATMからお金を引き出し、とりあえず東京駅まで行って岡山行きの新幹線のチケットを生まれて初めて買った。夜遅い時間帯だったので、名古屋で泊まって、次の日にまた岡山へ向かえばよいと駅員に言われたので、私はお礼を言ってものすごい形相で改札を通った。その私の様子を見て、その前にお金を引き出すために入ったコンビニでも、おじさんが不安そうにコンビニの店員に「ここでは、高速バスのチケットなんかも、売っているの?」と聞いたりしていたのをちらっと思い出した。


家族や親戚にはそこまでして原発事故を恐れる必要なんかないと呆れられながら、岡山の親戚にものすごい迷惑をかけて数週間滞在し、それから私は東京の自宅に戻った。東京に戻ってからも強い余震が沢山あり、夜中にマンションが揺れる度にご近所さんたちと廊下に出て地震が収まるのを待ちながら「怖いですね」と話し合っていた。


その経験から私の人生は180度変わってしまった。原発事故が起きるまでの私は、日本は自由で良い国で、マスコミも真実を報道しているし、男女の不平等もほとんどない社会だと信じていた。けれども福島第一原発の事故によって、日本のマスコミは人の命に関わる事でも平気で嘘を垂れ流して、多くの人を欺いて殺すのだという事を知った。私はこの世の真実を追求したいと思うようになった。


原発事故が起きてから、私は反原発運動や平和運動などの社会運動に身を投じるようになり、活動を通して知り合ったアメリカ人男性と、去年結婚した。


彼は、今年の私の誕生日プレゼントとして、3月11日の私の誕生日に福島を旅しないかと言ってきた。私は母の実家がある秋田に帰省するときに、南相馬のパーキングエリアなどに停車したくらいしか福島に行った経験がなかったので、喜んで福島を旅したいと答えた。


前の日に仙台に泊まった私たちは、仙台駅で朝食を食べ、お弁当を買ってから、常磐線に乗り込んで、福島の原ノ町を目指した。そこに、こぢんまりとした、良さそうなホテルがあり、そこを予約しておいたのだ。


宮城県の中を通っているときは、かなりの数の人が電車を乗り降りしていたが、福島県に入るあたりで、ほとんどの人が電車を降りてしまった。私たちはコトコトと電車に揺られながら、終着駅の原ノ町まで座っていた。


原ノ町駅に着くと、私たちは鎧を見たり、騎馬祭りの写真の前で写真を撮ったりして、ホテルに向かった。道の途中には、もう営業を辞めてしまったホテルもあった。


こぢんまりとしているけれども、床の間と掛け軸もあって雰囲気の良いホテルの部屋に入り、買ってきたお弁当を夫と一緒に食べた。静かな街にはほとんど人影がなかった。


午後2時46分、東日本大震災が発生した時間に、サイレンが鳴った。私は窓を開けて街の様子を見た。数少ない車が普通に通り、観光客のような若い女性たちが歩いて横断歩道を渡っていった。13年前に何事もなかったかのような静かな時間だった。


しばらくしてから、私たちは原発事故の後の福島の様子を視察に行こうと考えた。夫は福島の海が見たいと言う。そこで、数駅離れた「新地駅」に常磐線で行き、海まで歩いて行こうと考えた。一時間に一本くらいしか通らない常磐線に乗り、夕方になりかけている福島を移動した。新地駅から歩いて、近くになる釣師防災緑地公園まで行ってみた。3月11日なのに誰もいない。


公園の管理事務所の職員の人がいたので、原発事故の時の事を夫が質問してみたが、レモネードやホットドッグも売っているレストランがついている場所だったので、彼は津波の話はしたが、それ以上は話したがらない。福島の人々の警戒心を目の当たりにした。

お店でチョークが買えて、外の道路に落書きをしても良い場所があるというので、夫と二人で「No Nukes」「原発を許さない」と書いた。他の落書きは他愛もない、子供の落書きが多く、原発事故について書いてあるものはなかった。


公園にある丘の上で、キャンドルのライトアップの準備をしている親子がいたので、彼らの方へも行ってみた。まだ準備中だそうで、後でまた来ようと海岸へ向かった。


砂浜にはあまり貝殻が見当たらない。ぽつん、ぽつんと貝殻があるが、通常の海に比べると貝の数が少ないように感じられた。寂しげな風情を漂わせる海と、海岸を見ていたら、少し離れたところに監視塔のような建物が見えたので、そこまで行ってみた。階段を昇ってみると、ライフセーバーの部屋などがあった。私たちの他は誰もいない。


だんだん暗くなってきたので、3.11の追想である、丘の上のキャンドルライトアップに行ってみた。さっきの親子は、豆電球がついたキャンドルライトをたくさん丘の上に置いて、幻想的なライトアップをしていた。子供たちを連れた40代くらいのお母さんと話をしてみた。


上の男の子がちょうど13歳で、赤ちゃんだった時に東日本大震災に遭ったのだという。新地の海沿いには、震災前まで沢山の住宅や、旅館などがあったという。震災の日、彼女はみんな山の方に逃げていると信じ、おそらく自分の長男を連れて山へ逃げたのだろう。途中まで車を使い、後は徒歩で逃げたらしい。そして海沿いの自宅は津波に流され、奇跡的に一家全員、無事だったようだ。


津波の後、行政が海沿いの土地に居住禁止のルールを作り、土地を買い上げて大きな公園にしたという。だから、集落や町ごと、ご近所さんと一緒にみんな山の方に移住したようだ。


寂しい風景を見ながら話す彼女には、まだ言えないことが沢山あるように感じられた。


最後に、まだ3万人が避難生活を送っていると今朝の新聞に書いてありましたが、とその女性に言うと、「それは、大熊町や浪江町や双葉町の、原発が近くにある地域の避難者だと思います。」と答えた。地域によっても差があるが、今の福島は人口が多い地域と、人口が少ない地域と、地域によって極端にばらばらなのだ。


私たちは、一時間に一本しか通らない電車のことを考え、そこを後にした。帰り道、何もない荒れ地にぽつねんと立つお地蔵さんをみつけた。ここでも多くの人が津波の犠牲になったのだろう。小さなお地蔵さんと、板で作られた簡素な屋根が印象的な祠の写真を撮って、新地駅に急いだ。帰りの電車のホームを間違えて、危うく乗り損ねるところだったが、夫が気づいて何とか走って電車に飛び乗り、原ノ町に戻った。


静かな街を歩いて、夕飯を食べようと店を探した。電車の中から、小さな教会のようなお店が見えたので、そこに行ってみようという話になり、お店に入った。水道水の飲み水のサービスがないのが印象的なその店は、パンもパスタも非常においしく、テーブル席はそれぞれの席が個室のように仕切られていて、とても居心地がよかった。逆に、ここまでサービスを徹底しないとお客さんに来てもらえない厳しさを垣間見た気がした。


ホテルに帰り、温泉の大浴場があるというので行ってみた。女性用の大浴場には私一人しかいない。ここは日帰り温泉もやっているようで、ロビーに入浴用チケットを売る券売機もあった。ほぼ貸し切りのような温泉で温まって、外に出ると、500円で飲めるビールサーバーや、寝転がってくつろげるソファなど、東京では見ないサービスがあった。それでも人がいない。


ソファの近くに、「ロボットテストフィールド」と書いてある、大きな広告を見つけた。観光地のような感じで描いてある広告だが、どう見ても兵器にもなりそうなロボットの開発を、「福島第一原発の廃炉」を目的として謳いながらやっていそうな雰囲気を感じた。


見ると、このホテルがある原ノ町にあるというので、同じく興味を持った夫と、明日の午前中はここに行ってみようという話になった。


その日は、仙台で買った小さなチョコレートのカップケーキに、七色の炎がつくバースデーキャンドルを立てて、ささやかな私のバースデーパーティーをした。


普段は自宅の周りに飲み屋があり、非常に賑やかな環境で寝ているのだが、原ノ町のそのホテルは異様な静けさがあり、疲れていた私たちはぐっすり眠った。


次の日、起きて顔を洗ってからすぐにチェックアウトして、近くにあった喫茶店でモーニングを食べた。お店は古い内装がそのまま残っていて、常連さんらしい男性たちが、夫を見て物珍しそうに「外人だよ」と騒ぎ、カフェのマスターもコーヒーを出しながら「旦那さん、どちらの国の方なんですか?」と私に聞いてきた。彼らは13年間、どんな変化を経験していたのだろう。震災の前は、この辺ももう少し栄えていて、外国人もそこまで珍しくなかったのかもしれない、とふと思った。


モーニングを食べてから、私たちはタクシーを拾いに原ノ町駅の前まで行った。そこでタクシーに乗り、ロボットテストフィールドへ行ってくださいとお願いした。最初は、この辺は夕焼けが格別に綺麗だという話をしていた運転手さんは、突然、東日本大震災の話を始めた。海から300mしか離れていない小学校は、みんなできちんと避難して、一人も死者を出さなかったところもあれば、津波が来るという危険性を知りながら、教師が1時間も生徒たちを校庭に並ばせて、ずっと点呼を取りながら携帯電話で上司の指示を仰ぎ続けて、怖がる生徒が裏山に非難することを許さず、結果、大勢の死者を出して裁判沙汰になった大川小学校の話もした。「この辺は私らの世代にとっては住みやすいですけどね・・・」と前置きしつつ、タクシーの運転手さんは我慢しきれない様子で福島第一原発から20km圏内の住民の話をした。「あの人たちは、5人家族で1億円は国から貰っていましたからね(おそらく事故の前)。やっぱり、そういう人たちが悪いんじゃなくて、国の上の人たちが悪いですよ。あんなもの(原発)なんて、止めるべきなんです。お金は人を変えてしまいますからね。やっぱり、若いうちは苦労した方がいい、私はそう思いますよ。お金をもらっているから、言うべきこと、言えないわけですからね。あと、原発が近くにあると、若い女性とか、お母さんとか、女性は非常にそういうの(放射能)に対して敏感ですからね。若い人たちは、福島のあのあたりには戻ってこないですよ。何があるかわからないですからね。」そうせきを切るように彼が話している間に、私たちはロボットテストフィールドに着いた。1時間後にまたタクシーが迎えに来てくれると言った。そこで、私たちはロボットテストフィールドを観察し始めた。


大きな土管のようなものや、せりあがった坂になった試験走行用の短い道路、ジャングルジムのような鉄骨の建物が離れたところに見えた。原発建屋の中を想定して造られたとも言えるが、軍事利用にも応用が利くだろうその設備は、非常にグロテスクに見えた。


駐車場から展示物が見られる建物に行くまでに、少し芝生があるが、そこにはアルマジロのような、のこのこ草刈りをしながら走る草刈りロボットがいた。ただ草を刈るだけならいいが、内部に顔認証システムや、銃などの兵器の装備をくっつけたらどういう事になるだろう。ただひたすら気持ちが悪い。


空には、普通のドローンよりも一回り大きなドローンが、ぶーんと音を立てて飛んでいる。これもまた気持ちが悪い。


ロボットテストフィールドの展示場に入ると、名前を記入する紙があり、そこに住所氏名を書いて、後は無料で見学できた。そういう無料の見学方法は、新潟の柏崎泊原発の広報施設でも同じだった。展示物の張り紙に書いてあるキーワードを窓口に伝えると、無料で景品が入ったガチャガチャも2回できる。やってみたら、マスコットのキーホルダーと、記念の缶バッジが景品として出てきた。キーホルダーは「当たり」のよい景品だという。どれほど「当たり」が機械の中に入れられているのだろう。新潟の原発広報施設でも、帰りにアンケートに記入すると、無料でウェットティッシュが貰えたし、中には子供向けの無料ゲームコーナーまであったのを思い出す。人は、何か悪い事をしているときは、プレゼントでごまかすものだと思う。


他にも、色々な展示物があったので、見てみた。正面中央にあるモーターボートのようなものも、ロボットのようだ。「株式会社 人機一体」という、人間とロボットが合体したような、ガンダムを彷彿とさせられる絵がついた広告もある。人間がアンドロイド化して、政府が勧める「ムーンショット計画」の一端を担っているかのように見える。


近くの小学生に、ロボットテストフィールドを見学してもらった感想を並べたコーナーもあり、子供たちはみんな無邪気に「技術の発展はすごい」と書いて、ロボットテストフィールドのスタッフを応援している。


監視カメラと自動レジがついた、無人コンビニでお菓子などが買えるコーナーもある。見ると、お弁当も注文できるという。確かに近くにはコンビニも何もないから、機械から弁当を買えばいい、という実験なのだろう。


飛行機のコックピットを模した木造の椅子には座れる。何か画面が出てきて、操縦体験ができるほど手が込んでもいないから、小さな子供を喜ばせるための物なのだろう。


ロボットテストフィールドのマスコットの顔がついたクッキーの販売。


原発の廃炉処理に開発中のドローンの展示。


東京大学やALSOK(警備会社)までが研究に協力していることを宣伝するボード。


どれもこれも無機質で、人間はいらなくなる未来に期待しているかのような、ぞっとする展示だ。


夫が外に散策に出かけて、私は彼を探しに行った。彼は、近くの大きな倉庫のようなところで、ドローンの開発技術者と話をしていた。技術者の男性は、得意げに、ジャングルジムのような障害物を指して、「これは、ロボットの機能を競うロボットコンテストの準備をしているんです。」と私たちに説明した。大学や、民間企業も参加するらしい。「あのジャングルジムの間をどのくらいの速さや正確さで飛べるかを競うんで、今、あの障害物を作っているんです。」と言う。確かに脚立に乗ってジャングルジムを組み立てる男性たちがいるのだが、「ロボット様の下僕」になっている自覚はないのだろう。


私たちは、あと少しでタクシーが来てくれるというので、テストフィールドの展示室内にある自動販売機でお茶を買ってテーブル席で飲みながら、ぼんやりしていた。


しばらくすると、タクシーが来てくれた。タクシーの運転手さんは、さっきの原発の話をした男性だった。私たちがタクシーに乗り込み、荷物を預けてある駅の近くのホテル名を告げると、彼は私達から聞かれたわけではなくても話し始めた。「それでね、あの震災のときなんですけれど・・・」よほど、外の人に福島の現状を聞いてほしいのだろう。彼の正直さが痛々しいほどまっすぐだった。


津波が来ると言うので避難指示が出たときの話をずっとしていて、私は質問してみた。「原発事故が起きて放射能漏れがあるから危ないっているアナウンスは、行政からありましたか?」すると彼は、「何もなかったですよ。何も。何も知らされませんでした。」と言った。後で原発事故の伝承館で双葉町の町役場の職員だった男性からも聞いたことだったが、双葉町でも国から何の注意勧告もなく、避難指示もなく、たまたま通電したときに見たテレビで、初めて福島第一原発事故が起きたことを知って、福島の人たちはびっくりして、自分たちで対応し始めたらしいのだ。


ホテルに着いたところで、運転手さんは私におつりを返しながら、「でもね、ああいうのは、避難指示出すのはすごく難しいと思いますよ。」と私に言った。私たちは、タクシーが去るのを見守って、ホテルから荷物を受け取り、駅前にあった立ち食い蕎麦の店に入ってお蕎麦を食べた。


それから私たちは、双葉町に向かう事にした。浪江町も見てみたかったが、伝承館でどのような展示をしているのか、町の様子も気になった。伝承館のすぐ近くにある産業プラザの屋上からは、遠くに福島第一原発が見えるという。そこで、また常磐線に乗りこんだ。


大熊町あたりから、植物の様子も変わった。植物は沢山あるにはあるが、どれも縮れた茎や葉をしていて、元気がない。寒いから当たり前かもしれないが、まだ茶色く枯れたように見える。けれども、民家もほとんどない。田んぼのようなものも見える。一応、手入れをして米を作る準備を進めているようには見えた。雨が降っていた。電車の中には、ジャーナリストらしき人々が、カメラを車窓に向けて座っている。その数もまばらだが・・・


浪江町を通過して、あまりの惨状に息を飲んだ。本当にゴーストタウンになっている。誰も住んでいない、荒れ果てた家ばかりが目に付く。中には余震でぺしゃんこに潰れた、瓦屋根の家も見える。浪江町には出荷できない被ばく牛を殺さずに育て続ける男性がいて、「希望の牧場」と呼ばれている農家があるらしい。今回は行けないが、本当に何もないゴーストタウンを目にして、言葉がなかった。


双葉駅に着くと、立派な階段がホームについていた。大理石のように見える。東京でもこんな立派な階段の駅はほとんどないだろう。改札口に上がると、階段とはうってかわって、ゲートもなくスイカだけタッチするようなものが立っていた。田舎の駅でよく使われているが、これでは無賃乗車が簡単にできてしまうだろう。どうも、エリア外からスイカを使ってきてしまったので、機械で精算券を買い、それを無人の改札近くにある箱に入れれば良いらしい。そこだけアナログなのが滑稽に思えた。


雨が降る双葉町の駅前に、小さなワゴン車のようなバスが見えた。そのバスで、伝承館近くの産業プラザに行けるらしい。乗り込んで、帰りの分も回数券を買った。バスが走り始めると、廃墟のような建物に大きくてカラフルな壁画が見えた。綱引きをしている絵や、東日本大震災が来た日時、何年か後の同じ日時を描いた、近未来的な絵もある。誰もいない街に壁画だけがあり、非常にシュールだ。後で観た旅行用パンフレットには、この壁画を見ながら双葉町をサイクリングしよう!という、悲壮感のかけらもない広告が出ていた。


この町の人々はどこで買い物するのだろう、と思ったら、見たことがない業務用スーパーかコストコのような、大きなスーパーがバスから見えた。

追記・福島に詳しい方がコメントをくださり、双葉町で買い物できる場所はここのスーパーのようなものではなく、双葉町の産業交流センターのみだそうです。そこには、ファミリーマートとお土産屋、野菜コーナー、食堂などがありました。双葉町のお年寄りは、家族の共助によってしか買い物に行く事ができず、完全に国から見捨てられているそうです。


バスは寂しい風景の町を抜け、双葉町の産業プラザ前に着いた。雨になるべく濡れないようにしようと小走りに走り、折り畳み傘をスーツケースに入れてしまったことを悔やんだ。夫は帽子にコートだけで軽く雨を防ぎ、私たちの荷物が入ったスーツケースを持って産業交流センターに入った。産業交流センターの中だけ、異様にきらきらしていた。福島産の桃を使った、冷凍のデザートが冷凍庫に並び、お酒やお土産のお菓子など、色々な商品が棚に並んだ土産屋が入っていて、そこに結構人がいた。福島産の野菜は、午後の早い時間なのにもうかなり売り切れに近い。クッキーやおせんべいなどを沢山買っている女性は、特別な地元ブランドの日本酒も買おうとレジの店員に話しかけている。ぶらぶらと店内を歩いていて、ふとキーホルダーに目が留まった。「ムクロジストラップ」と書いてある。子供の病を吹き飛ばす願いが込められている、と説明書きにあり、びっくりした。ムクロジとは、木の実をつける植物の名前で、ビーズと一緒にムクロジらしき植物の種がついていた。それが250円。お買い得なのかなんなのかわからないが、福島では子供が病気になるのは珍しくないという事の証にも見えてしまう。お昼時なので、食堂には沢山の人が来ていて、食事をしていた。産業交流センターの裏に、原発事故の記憶を伝える伝承館があるので、荷物を持ったまま行ってみた。大きな白い壁の建物に入ると、コインロッカーがあったので、そこにスーツケースや重い荷物を入れた。券売機で入場券を買い、まず係員の案内に従って映像を見た。東日本大震災、そして押し寄せる津波、原発事故・・・映像は、人々は「絆」と「助け合い」で危機を乗り越え、今は前を向いて復興しているというような締めくくりだ。噂には聞いていたが、呆れてしまった。復興しているなら、ごまかしのように立派な駅舎や、誰もいない街をごまかすかのような壁画が空々しい事はどう説明するのだろう。浪江町の、潰れた家は?枯れた植物は?


順路に従ってやけに綺麗で白い壁沿いに、らせん状に歩いて上の階へ上がっていった。壁にも震災の記録が書かれている。そして、謎なことに、途中に何か所も休憩できる部屋があった。ちょっと立派な造りの部屋だ。椅子もあり、自由に座れる。やけにサービスの良い休憩所付きの道をあがって、展示室に入ると、津波で流されて変形したり、汚れたりしたものがそのまま展示してある部屋や、原発事故が起きた経緯について説明する部屋がある。ある意味正しいのだけど、ある意味で正しくない解説もたくさんあった。


福島に来て、やたら「絆」「助け合い」という言葉を目にするな、と思っていたが、福島の人がもともと親切な事は知っている。彼らの優しさを利用して、原発事故を問題ない事にしたがっているように見えた。


夫がどこかに行ってしまったので、一人で展示物を見ていたら、係の人がやってきて、「語り部の方の講演会がもうすぐ始まります」と教えてくれた。帰りのバスや電車の時間は気になるが、なかなか来られない場所なので、語り部の人の講演会を聞こうと思った。


語り部の男性は、双葉町の町役場の元職員だった方だ。今の双葉町には、103人の住民しか住んでいないらしい。話す彼からは、放射能への不安を素直に口に出せないもどかしさと、町が元通りになれないことへの寂しさと、複雑な思いが感じられた。


「やっぱり、若い人たちは戻ってこないですよ。13年経って、双葉町に住んでいるのは、たったの103人ですよ?」


彼は悔しそうに言う。タクシーの運転手さんは「あの地域は、一家5人で1億円も国から貰っていましたからね、お金は人を変えてしまいますよ。」と言っていたが、お金では解決できない放射能汚染という問題が、双葉町には確実にある。双葉町の駅の近くには、バンガローのような綺麗な建物がたくさん並んでいたが、そこに移住者を呼んで住まわせる計画があるのだという。植物もひょろひょろになってしまうような地域で、自然を楽しむ生活ができると謳って人を呼んでいるようだが、現実には空っぽの箱のような建物だけが寂しげに建っているのが福島だ。


語り部の男性は、津波が来た時に浸水した建物の写真や、役場の様子について説明していたが、原発事故の被害については具体的に語れないような雰囲気を感じた。


福島では、放射能汚染による健康被害が出ているのに、みんなコロナワクチンの健康被害について語りたがらないのと同じように、詳しく話すことをためらっているような気がした。


お話が終わってから、彼に聞いてみたら、双葉町の役場の人が原発事故について知ったのは、たまたま通電したときに見たテレビによってだったので、国からは何の連絡もなかったことは先に書いたが、私には意外だった。できるだけ原発事故が起きたことを大事にしないために、何らかの圧力が働いていたのだろうが、札束で頬をひっぱたかれたようにして原発を故郷に受け入れた人たちは、完全に騙されていたことになる。


元々は豊かで、桃も米も乳製品も福島産のものは高級品だったのが、あの原発事故から全く売れなくなってしまったのだ。風評被害という言葉もあるが、食品内の放射線を測定する測定器で測ると、日本の食べ物は高い放射線の値が出る。


私たちは、月日が経つとともに大切な事を忘れていく。


目先の利益に惑わされたり、便利だという言葉に惑わされたり、文明の進化だという想いにとらわれたり、色々な間違いを犯す。


私たちは、雨が降る中、双葉駅の近くにあるコミュニティセンターに戻り、数少ない電車が来るのを待つ間、そこで過ごした。そこには、ミネラルウォーターの給水器もあれば、無料のコーヒーやお茶、クッキーもあり、テーブルと机に座って勉強ができ、置いてあるピアノを遊び弾きして過ごすことができる。どらえもんに出てくる「どこでもドア」を模した、大きな扉は、ただ開くことしかできないが、物そのものはよく作られていて立派だ。人が来てくれるだけでありがたいのだろう、と思ったが、そこのスタッフは放射線の影響を受けやすい、若い女性ばかりなのが気になった。双葉町の住民の手作りの紙細工なども無料でお土産にできるという。入口のガラスには、「除草剤配布」の張り紙があり、放射線だけでなく除草剤でまで癌になるリスクを得るのかと思うと、なんだか暗澹たる気持ちになる。心なしか、外に植えられているパンジーの花も元気がない。

ようやく常磐線の電車が来たので、電車に乗って水戸を目指した。ローカル線だと時間がかかるが、双葉町からいわきの方まで移動していくと、原発に近い場所の人口がいかに少なく、いわきに来るとどっと人が押し寄せるように乗るかがよくわかるので、そのルートで東京に帰ることにしたのだ。


雨が電車の窓ガラスにつき、暗くなってきた夕方の福島は、なんとも表現しがたい侘しさが強く感じられた。


いわきまで来ると、私が昔、茨城に住んでいた時に見ていた、嫌と言うほど混雑する常磐線の顔に戻るのだが、仙台までを結ぶ区間は全く別世界だった。


人が多くいれば、それだけ自然も開発されてなくなってしまうが、人も自然も息づかない地域の侘しさは、一生私の脳裏に焼き付いて離れないだろう。


福島から帰ってから、私はしばらくの間、頭痛や胃腸の不具合に悩まされた。


私たちは、事故が起きたらこのような健康被害が出る原発を、全国に54基も抱え、戦争に向かって突き進んでいる。


人は、自然だけではなく仲間を殺さないと気が済まず、自分のことも滅ぼさないと納得がいかないかのように思えた。


いつの日か、私たちがこの悲惨な世の中を真剣に嘆く日が来るのかもしれないが、その時にはほとんど全ての生き物が絶滅するしかない状況にまで追い込まれているのだと思う。


人間の愚かさと弱さを認めるためには、真実を巡る旅が必要不可欠なのではないだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?