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駐夫が「キャリアカウンセリング・コーチング」を行う理由

受験、就職、海外駐在、結婚、子供の誕生、転職、そして奥さんの海外駐在に帯同するため退職、主夫(駐夫)と

自分でも、なかなか慌ただしい人生を歩んできましたなと思います。

「自分に正直なキャリア」
「新しいキャリア」
「今後の世の中のモデルケースになりそう」

など身に余る言葉をいただくこともあります。

だけど、これまでの人生全く順風満帆ではなく、逃げ続けた人生だと自分では振り返っています。

これまでの人生の大半は逃げてきた。

これからは絶対に逃げたくない

そして、僕のように、逃げて後悔する人はいなくなってほしい

だから、頑張れる機会を多く作りたい。

そして、頑張りたい人を応援したい

だけど、マネジメントの能力は全くない。

だけど、対等な関係であれば誰かを応援できるのでは

そんな根底にある想いが僕の

キャリアコンサルタントやコーチとしての活動なんです。


逃げてきた人生

決して裕福ではないが、貧乏でもない自営業の家庭にうまれました。

小さい時から野球が大好きでプロ野球選手になることが夢でした。

だけど通っていた中学には野球部がなく、野球を続けるにはクラブチームに入るしか道はありませんでした。

本当に大好きで、本気でプロ野球選手になりたいと思っていたのに、プロ野球選手になるのであればクラブチームに入るしか道はないのに、親があまり協力的でなかったことと、その時の友達付き合いを優先し、あっさりと諦めてしまいました。

思い返せば、この時から僕は「それらしい出来ない理由」を探し、現実から逃げ続けることになっていきました

この時は親のせいにした記憶があります。

こんな些細な「逃げ」が後々まで真正面にたてなくなるとは、この時は当然ながら分かってませんでした。

それ以降、

勉強はしたくはないが、それ以上に働きたくないという理由で大学に行き、

大学に入る理由が逃げだったので、大学に通う理由もなくバイトばかりする日々、

でも大学を辞めると地元に帰って働くことになるから、仕方なく大学に通いだす、

父親に実家を継いでほしいと言われるのが嫌になり東京で就職活動、

特に入社したい業界もなく、何となく安心感があり・親も納得しそうな大手メーカーに入社、

就職理由も逃げからなので、全くモチベーションがあがらない、

だから新人時代は何回ずる休みしたか忘れました。

そんな最低なビジネスマンだけど、これまで逃げ続けてきた結果、「それらしい理由」「最もらしい理由」を言うことだけは得意でした。

そんな変な得意技もあってか、なぜか中国駐在の打診をいただきました。

転換点

転換点は20代後半から30代前半に経験をした「中国駐在」です。

一番大きい出来事は中国人同僚との出会いです。

当時は中国が一番勢いがあった時代(北京五輪、上海万博の少し後くらい)だったのかもしれませんが、

中国人同僚の興味は、自分のキャリア(特に年収)をどうあげていくのかが重要であり、会社に対しての忠誠心のようなものはまるでありませんでした。

実際に僕の部下から言われた言葉は以下の通りです。

「会社や同僚には満足をしている、ただし僕にとって会社や仕事は僕と僕の家族の生活を良くさせるために手段、もっと良い条件をもらっているのに転職しない選択肢はない、家族にも怒られる。」

この出来事は本当に頭をハンマーで殴られたような出来事でした。

その当時の僕は、会社に忠誠心なんてないのに、あるような振る舞いをし、自ら成長の機会を創出することなく常に人任せ、まさに他責思考でした。

会社としては中国人同僚の退職は損害だけど、当時の僕は彼らが凄く眩しく感じました。

この出来事をきっかけに、
・本当にやりたいことは何なのか?
・どうなりたいのか?

を真剣に考えるようになりました。

また海外での仕事は日本とは違い裁量権も大きく、ガムシャラに働くことができました。そうすると、社内のことも今まで以上に見えるようになりました。

その結果、僕のやりたいことは、この会社にはないと結論になりました。

人生で初めて自分の意思でつかみ取った経験

中国人部下から伝えられたことをきっかけに、本当にやりたいことは何なのかをずっと考えていました。

2年間近く自問自答の日々でした。

自問自答をしても、当初は答えは全く出ませんでした。

でも考え続けることで行動が変わってきました

具体的には、

・仕事への向き合い方
・週末の早寝早起き
・月10冊の読書
・中国語学習の再開
・ランニング→フルマラソンの出場
・一人旅
・新しい人付き合い

などなど

行動が変わると、今まで見えていなかった自分が見えたり、その結果思考が変わっていきました。

そしてまた行動がかわり、自己認知・思考が変化していく。

そんなサイクルが回っていきました

その結果、

・海外どこでも働けるスキルを身につけたい
・個人の裁量が大きい会社で働きたい(自責思考に変化したい)
・社会に少しでも貢献できている実感を持ちたい

という結論になりました。これら結論を職種に当てはめると

「転職エージェント」という結論になりました。

そこからは「転職エージェント」になるための準備をしました。

キャリアカウンセリングの資格をとったり、業界研究、会社研究を行いました。

その結果、両面型の転職エージェントでコンサルタントになりたいという、かなり具体的な目標をたてて、第一志望企業から内定を得ることができました。

これが僕の人生で初めて自分の意思でつかみ取った経験です。

この時、既に32歳でした。

希望を叶えて見えた自身の優先順位

転職エージェントの最初の2年間は本当にガムシャラに働きました。

求められるスピード感の違い、個人の裁量の大きさ、責任の大きさと当初は本当に死に物狂いでしがみついていました。

3年目くらいからは、徐々に俯瞰して見えてくるようになりました。

そうなると、徐々にですが社内や社外からも頼られる存在にもなってきました。

成果報酬制の会社でしたので、時代の流れもよく凄い報酬もいただいていました。

それが嬉しくて、更に仕事が楽しくなってきました。

ただ、長くこの仕事をするのは難しいなっと感じていました

・海外どこでも働けるスキルは身についてきている
・個人の裁量で働けている
・社内だけでなく社外にも感謝される機会も増えている

当初希望した条件は概ね叶っているのにも関わらずです。

その理由は、僕自身の社内での立場も変わり、自社の利益を最優先に考える中で、メンバーや後輩に指示を出すことが増えてきたことが大きかったです。

仮に求職者に最適な対応でなくとも、採用企業にとっては最適な場合はあります。

採用企業にとって最適だった場合、それは日本社会全体にとってはプラスの方が大きい可能性もあります。

ただ、そうであっても僕の希望していた「社会に貢献したい」という気持ちとはズレがあると感じていました。

そこから僕の希望する「社会の貢献」とは「人により良い機会を提供する」ことだったのだと気づきました。

その想いの源泉は何なのか、考えてみると

・自分自身が逃げ続けてきたから
・機会によって自分を変えることができた

ここに行きつきました。

機会によってプラスに変えることが出来たのに、そんな僕がマイナスな機会を提供することはどうしても許すことができませんでした。

そして「人により良い機会を提供する」ことが僕の働く上で一番重要なのだと気づきました。

こんな青臭くもある想いをリクルートとの面接で話し受け入れてくれて、リクルートに入社をしました。

リクルート入社後は、企業と求職者のど真ん中に立ちながらの転職支援ができたと本当に思っています。(やはり個人業績は少しさがりました)

最後に駐夫から一言

野球をやめるという些細な出来事をきっかけに僕は

やらない理由を探し
出来ない言い訳を探し
それらしい理由(他責)をいい
本気になること

を避け続けてきました。

そんな僕は奇跡的にチャンスをもらった「駐在」という機会をいただいて、人生がかわりました。

そしてその機会を活かして初めて自発的に行動して、自分の手で成果をつかんだのは32歳の時です。もういい大人です。

逃げずに前を向くのに20年かかりました。

そして本当の自分自身の価値観に気づくことは出来たのは、37歳の時でした。

前をむいて本当にやりたいことに気づくのに25年かかりました。

そんな経験から

「変わりたい、もっと上昇したい」
「だけど、何をすればいいのか分からない」

「もっと出来る、もっと上昇したい」
「だけど、停滞感ある」

・そんな前を向いている人に逃げてほしくない
・そんな人を全力で応援をして、ゴールまで導きたい

と本気で思っています。

これが僕がキャリコンサルタントとして、コーチとして
キャリアカウンセリング・コーチングを行う理由です。

・自身のパフォーマンス向上
・人生の目標設計や振り返り
・部下との関係性向上 など

「変わりたい、上昇したい気持ち」の源泉を探し出し

仕事・家庭・その他様々な悩み事を整理し

最も集中するべきことに向き合ってもらい
そしてゴール到達までサポートします。

体験セッションも行っています。
是非検討ください。

ではまた。


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