「 九鬼周造が気になって 」

ある講義で取り上げられた「九鬼周造」さんの存在がどうも心に引っ掛かって調べてみた。
”軽やかな思考”
”かなり教養のある人”
”日本人離れした考え方”
”「個人」の問題を考えた人”
彼についての説明する教授の言葉がどれも魅力的だった。

まだまだ目を通した情報もわずかなものであるが、いま受け取った情報と、そこから広がった私の思考をここに書き残していけたらと思う。

著書「「いき」の構造」は数年前からその存在は知っており、気になる本の中の1冊であった。「粋」(「いき」は「粋」を指していると思っていた)は日本人的な言葉で気になっていたから。

人間の魅力や美を研究した書として捉えられることも多いが、そもそもこの本は夜遊びの美学について書かれた本である。
様々な捉え方をされるであろうこの題材の書籍が長く長く読み継がれているということへも面白さを感じる。
周囲がどんな意見や偏見を抱いていたとしても、その対象に真面目に構えて考え抜き、やり抜くことは、価値があると励まされる。
そして何より、自分が突き詰めたいと思い立ったことを一心不乱にやり遂げることに周囲からの評価はそこまでの意味を持たないのかもしれないとも思う。
そして新しく「美学」という分野にも興味が湧いてくる。


①媚態 
人に取り入ろうとする心。
つかず離れず、一定の距離の距離を有する関係。
どこかに危うい緊張感のある関係。
近づこうとするも、極限までは接近しない距離感。

②意気地
自分が思うことをどうしても通そうとする気持ち。
頑固。
意地っ張り。
自分を安売りをしない心構え。

③諦め
全ては移ろうものとして、執着を諦める心情。

この三つを両立することで「いき」が生まれてくるということ。

他人を寄せ付けてもある一定のところで一線を引く。
その空白に美や魅力が宿る。
余白に「想像」という可能性を生み出す。

これもまた「曖昧さ」を重視する考え方であると思う。
これも私の好きなジレンマや矛盾、葛藤の考え方に繋がっていくことだと感じた。私の思考はいつもここを通る。

ひとり孤立する、繋がる、の二つに一つではなく、その間に「いき」というものが存在している。
否定を挟んだ両義的な状態を大切にしているのが「いき」である。
「いき」には幅があり、バリエーションがあり、動的なものである。
移ろうその点を調整するのはいつでも「己」であるということ。

『自分自身に関心事を持つことが大切です。
つまり自分が興味を持つものや自分が面白いと感じるものを持つということ。
それがなくて、だけど人に認めてもらいたいという他律的な生き方をしていると、結局、もっと他者と繋がりたいという承認欲求を止めることができない。
けれどそれを諦めないと「いき」にはできない。』



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