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『長い正月』を終えて。

20歳の国『長い正月』が終演した。
何だか嘘みたいな公演だった。
最初から最後までこれは面白いぞ!と思ってはいたが、面白いぞ!の輪がここまで広がるとは思っていなかった。

企画書の段階で面白そう!と思って、11月のプレ稽古で面白くなりそうな予感が加速し、12月の本稽古で面白い実感は確信に変わっていった。

ただ如何せん年末から正月にかけて年跨ぎの日程の公演だったので集客は厳しく、特に大晦日の日の回は、初日を迎える前の段階では1ケタだった。

それがまあ、12月29日の初日は50人以上入って、30日はそれよりちょっと少なめのお客さん、31日は何とか30人ぐらいまでお客さんが伸びて。1月1日の元旦休演日を挟んで、こっからが勝負だな、と思っていたら12月の最初の方に観に来てくれたお客さんの面白い!という口コミのお陰か、あれよあれよと予約が埋まっていき、当日券の列が出来て、入れずに帰って頂かざるを得ない方も出てくるほどで、初日明けてから予約が500人以上増えるという大盛況っぷりだった。

今年の5月に閉館の決まったアゴラでの公演ということも大きかっただろうけど、何よりも面白い作品を作ればお客さんは来てくれるんだということを実感させてくれた、本当にありがたい公演だった。カーテンコールの拍手、客出しの時の感想、SNSの反応、全部嬉しかった。

でもみんなが口々に面白いと褒めてくれることに関しては予想外でも何でもなく、
そうでしょうそうでしょう!面白いでしょう!と自慢げな気持ちだった。それぐらい最初っから面白い予感に満ちた作品だった。
本当に。

最初の方の蕎麦食うシーン

もう企画書の段階から魅力的な文言で溢れていた。
100年の正月を描くというのは大々的に謳われており、この作品は見る人が見れば分かる“ある戯曲”を下地にしていて、それに倣ってシームレスに時間が経過していくことが明記されていた。

自分がこの企画書を読んだ時にまず思い浮かべたのはMrs.fictionsの『上手も下手もないけれど』だった。
この作品は男女2人が幼い頃に出会って成長し歳を重ねて別離していくまでを舞台の楽屋で俳優2人が“本番”の為に支度している様子と重ねる、という内容でシームレスに月日の流れを表現していく感じはまさにこのイメージだった。
ただMrs.の作品は15分で2人だけなのに対し、『長い正月』は100分(=100年分)で出演者は8人…!

この時点でどうなるんだろうか…!とワクワクだった。

これはあとから思ったことだが、全編マイムで表現する、というのも20歳の国としては大きな変革だった。
以前の20歳の国の特徴といえば、めちゃくちゃキスするし、めちゃくちゃホンモノの煙草を吸う、ということだった。つまり眼前で繰り広げられる圧倒的リアルとしてキスと煙草を使っていたのだろうけど、コロナを経てあまりそういった表現を舞台上でやるのは好ましくないとされて、即物的リアルとは真逆のマイム表現にいったのも面白い。


そう、自分は過去に20歳の国に出演したこともあり今回で3回目の出演なのだが、それ以上にお客さんとして観ていることの方が多く、20歳の国の作品としての変遷、並びに竜史さんの作家・演出家としての変化を感じたことが面白かった。

竜史さんは去年の6月からドラマチック界隈というワークショップ企画を始めている。このワークショップでは外部から毎回色んな演出家をファシリテーターとして招き、竜史さんも参加者の一人になって他の参加者と共にワークショップを受けている。そこにはなるべく参加者全員が対等な立場で接することが出来る配慮がなされていた。
自分はこのドラマチック界隈の企画意図から内容まで深く感心したので、去年開催されたワークショップは全部参加した。

それを経ての11月のプレ稽古だったが、強く感じたのが現場の優しい空気作りがもの凄く上手いこと。めちゃくちゃ風通しが良い。
出演は3回目とはいえ、今回参加するのは6年ぶりでその期間はほとんど会ってはいなかったのだが、きっとその間にもがいたり考えたりしたのだろうということが伺えた。中学生相手のワークショップをやっていた話は聞いたが他にも色々あったのだと思う。
稽古が終わるたびに演出家から一方的にノートを言うだけでなく、役者たちからフィードバックを取るのが非常に印象的だった。

また、ドラマチック界隈で教わった演出方法を早速実践して使っていたのも界隈の住人としては面白かった。自己紹介代わりに二人一組で漫才したり、台詞をうろ覚えの状態で無理やり台本を手放し、いきなり立ってやってみるとか…。

フィードバック竜史さん。本番中も御朱印を書きつつフィードバック書いてた。

稽古が進み、台本が完成した頃、今回の作品は今までの20歳の国の進化型だ!と感じた。
以前の20歳の国は青春劇を大々的に謳っていて、青春からの卒業宣言を経ての今回の『長い正月』は、当然青春劇ではない。群像劇であることは共通しているが、以前の20歳の国は出演者がもっと多くて15〜20人ぐらい出てるのもザラだった。今回は8人である。
人数の変化も大きいが、台本の構造にも大きな変化が現れている。
20歳の国の脚本では、各人が会話の中でフラストレーションを溜めていき、会話の中で晴れることはないまま、次々シーンが展開していく。そうして登場人物たちのフラストレーションが最高潮に達した状態でラストシーンでは登場人物が一堂に会してダンスなり歌なりパフォーマンスなりでカタルシスを表現する。(竜史さんは『ラ・ラ・ランド』が好きと言ってて納得した)これが基本構造だった。ただ、以前の場合だと、会話するチームが決まっていて、チームごとにシーンが移っていく形式だったので、シーンとシーンの合間に切れ間があった。出演者がたくさん居ても絡まない人たちも結構いた。
今回の場合、そうした切間はなくずっとシームレスに展開していく。(途中一回だけ暗転するけど)シーンが分かれてもいないので、出演者8人全員がそれぞれやりとりもする。これにより、以前だとシーンの切れ間で中断されてたフラストレーションの蓄積がより細かく降り積もっていくことになった。
これはヤバい、ラストシーンでとんでもない爆発起こしちゃう!と台本だけでもワクワクした。

そう、青春劇でもない、キスも煙草も出てこない、けど間違いなくこの台本は20歳の国だったのだ!
埜本幸良さんのポッドキャストに竜史さんがゲストで出た回で語っていた通り、竜史さんはイケてるグループでもイケてないグループでもない、物語だと取りこぼされてしまいそうなフツーの人たちの話を書きたいと言っていた。フツーの人たちがフツーの会話をしてフツーに過ごしている中で、フツーに溜まっている鬱憤やモヤモヤを描きたい、と…!『長い正月』の台本も、大きな事件は起こらない。至ってフツーな会話が100年続くだけである。小さな事件を起こしていこうが稽古場での合言葉だった。

竜史さんの演出も細かく深くなっていた。役者が役としてスッキリするのを許さない、鬱憤が少しでも晴れそうだったら、解放に蓋をする方に巧みに誘導していった。(幸せなのに居心地の悪い・寿美を演じた田尻さんは特に悶え苦しんでいたが、役として正しい方向に進んでるなぁと自分はニッコリしていた)
完成した台本を読んで、稽古が進むごとに、竜史さんの興味の方向は以前からブレずに変わってないのだな、と思った。より細かく深く、フツーの人たちのフラストレーションの蓄積を溜めていく。溜まれば溜まるほど、ラストシーンの爆発はとんでもなくなっちゃうのだった。


ラストシーン。走馬灯、あるいは地獄の絵。

また、
俺はこの家を見てるのが好きなんだよ。
という台詞が今回あった。

この台詞を初めて目にした時、何かもう、とにかくびっくりした。というのも、普段自分が考えてたことがまんま出てきたから。自分は見てる人だなぁという実感をここ15年ぐらいずっと抱いていた。

それこそ、イケてるグループとかイケてないグループとかグループのピラミッドを考えた時、自分はいつもそのピラミッドの埒外に居たなあ、ということに数年前に何となく気づいた。何故か知らないがいつもピラミッドを見てる人になってしまうのだ。

学校でも仲の良い友達はいたけど、常につるんでいるという感じはなく、教室内のポジション的に大きいグループの輪の中に含まれそうな位置にいつも座っているけど、特に発言もしてないという感じで。何か事件が起こった時に当事者となることがなかった。

俺、見てる人だ!とある時気づいた。そしてそういう人は無用の長物かと思いきや、案外何らかの役には立っているのである。人の視線があるだけで、人は悪さをしなかったり、安心したりする。そういう意味で見る人もコミュニティには必要なのである。普通そういう役目を担うのは隠居したおじいちゃんとかなんだけど。

まあ、そんな感じで、俺見る人だなあという実感を抱いて、
見てるだけじゃダメかなぁと思ったり、でもそれなりに役に立っていなくはないんだよなぁと思ったり、でもまだ20そこそこだぞ?(とか考え続けてもう34歳)と思ったり、役者なのに中心に躍り出ないで見ているばかりってどうなんだ?と思ったり、見る人でい続けることが果たして良いことなのかどうかという問いは常に頭の片隅にあった中で

俺はこの家を見てるのが好きなんだよ。
という台詞が出てきたもんで、マジでビビった。
作家って凄い。見抜くんだね。お陰で春彦に物凄いシンパシーを感じた。

この台詞は、そういう人はいるということを肯定しているだけで、見ている人になっていることのスタンスに対しては肯定も否定もしていないところが凄く良いと思う。お陰で春彦を演じたことで見る人であることの実感は強まった気がするけど、見る人でい続けることが良いことかどうかは結局わからなかった。でもボールは投げないと始まらないんだよなあ。

『長い正月』は未来へ世界へ広がっていく強度を持つ作品だから、何度だって再演されるべきだと思うけど、自分以上に春彦を演じるのにピッタリな人はいないと強く思っている。春彦を演じるのはとても楽しかった。
アンドロイドのような若者から年老いて木のようになっていく男。

私は木。

本当に素晴らしい作品だった。
人さえ揃えば出来る戯曲でもあるので、若い学生さんたちにもやって貰いたい。面白いぞ!の輪がさらに広がっていって欲しい。
願わくば再演することがあればまた春彦を演じたい。

その時までマイムを練習しておくこと。自分でもびっくりするぐらいマイムが下手くそだった。もうマジで、練習します。頑張ります。

作品の沽券に関わるほどお口が漆黒。

また逢う日まで。

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