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プレ皇室研究: 方形周溝墓を調べる

リストを検索したけどないんです。
九州1か所、瀬戸内海周辺、大阪、あとは関東に進んでいきまして、そこで終わります。数だけなら関東の方が多いかもです。

でも写真を撮っている人がいて、いくつか紹介されているので、リンクします。


方形周溝墓は特定の個人墓ではなく、複数の被葬者が見られることから、家族の墓だったと考えられる。しかし、着装品の有無や赤色顔料の使用の有無などから序列化ができあがっていた。また、いくつもの方形周溝墓が密接して営まれることが多かったようである。溝に埋葬されることもある。

弥生中期には、周囲の土を削りだし、山や丘陵、尾根の上に造られた方形台状墓も現れ、中部地方・関東地方へ伝播した。弥生前期の中部・関東では、一度遺体を土壙して骨化させてから小型の甕や壺に埋納する再葬が行われていたが、方形周溝墓が伝わると墓制の主流となった。

方形周溝墓は弥生時代より早い時期に朝鮮半島に大量に発見されている。墳丘墓は支石墓と同じく、中国には見られない墓制で、朝鮮半島南部から伝えられたものと考えられている。これは弥生人が中国長江地域ではなく朝鮮半島から移住したことを証明している[2]。北部九州では方形周溝墓は少なく近畿地方に発見され始める。その理由は方形周溝墓を作る集団が北部九州に定住した後、短い時間に近畿地方に直ぐ移動したからだと考えられている。福岡県東小田峰遺跡で弥生時代前期初頭の例がある。この方形低墳丘墓は弥生後期に大形化し、前方後円墳に発展する。


https://archaeology.jp/wp-content/uploads/2022/09/11803ffe30cfaa591311de7f146421ae.pdf

これは弥生時代前期の遺跡、住居と墓がある。
ガラス璧と鏡と剣などがでているので、王墓とみなされるが、私的には天照大神の墓またはその息子のオシホオミの墓と推測する。

田能遺跡|兵庫県尼崎市
弥生時代中期後半とあります。つまり一般的な弥生時代の区分でいうと、1年から100年くらいまでと想定できます。

「前期は紀元前3世紀頃から、中期は紀元前1世紀頃から、後期は1世紀中頃から3世紀の中頃まで続いたと考えられている。」
うーん、これは神武天皇一行じゃなくて、その前のニギハヤヒ一行の影響ではなかろうか???

加美遺跡|大阪市平野区

「加美遺跡は平野区加美東一帯に所在する遺跡である。
 昭和59年(1984)に実施された加美東6丁目の調査によって、古墳時代初期の集落跡と墓、その下層から弥生時代中期の2基の墓(Y-1号墓・Y-2号墓)が見つかった。全容が判明するY-1号墓は、墳丘裾部で南北26m、東西15m、高さ3mを測り、墳丘内から23基の埋葬が確認された。近畿地方を代表する弥生時代中期の大型墳丘墓として、全国的によく知られた存在である。
 発見された23基の埋葬施設のうち、9基が小児用、14基が成人の木棺で、中心の埋葬施設である5号木棺は二重構造をもつ特異な形態の木棺であった。副葬品(装身具)として、2号木棺から円環型銅釧(どうくしろ)1点とガラス平玉1点、14号木棺から円環型銅釧1点、1号木棺からガラス勾玉1点と丸玉1点が出土している。いずれも墳丘の北部に埋葬されたグループに含まれ、被葬者は女性であると鑑定されている。墳丘上や周溝からは、埋葬の儀式に用いられたと考えられる土器や木器が多数出土し、当時の生活用具が良好に残っていた。
 銅釧は2点とも漆黒色をした白銅製で、被葬者の右腕に装着された状態で出土した。円環型銅釧の完形品としては、近畿地方の初例である。
 加美遺跡Y-1号墓は、河内平野で多数見つかっている方形周溝墓のなかでも際立って規模が大きく、銅釧を所有する人物が被葬者に含まれるなど、いくつかの集落を指導する立場にあった有力家族の墓であると考えられる。また、その出土遺物は、河内平野における弥生時代の葬送の様子や、家族の構成を考える上で欠くことのできない資料である。」

こっちも弥生時代中期だ。

安満遺跡|大阪府高槻市

「安満遺跡は、近畿地方でもいち早く米づくりを始めた、弥生時代の大環濠集落跡です。約2,500年前、稲作技術をたずさえた開拓者たちが安満山を望む葦辺に水田を拓き、先住の縄文人たちと共生するなかで、新たな弥生文化が華ひらきました。
京大農場跡地一帯に、環濠がめぐる居住域、低湿地と一体をなす生産域、そして墓域が営まれました。人々は淀川を通じて広範な地域と活発に交流し、ほぼ800年間にわたって栄えたことがわかっています。
日本の弥生文化を知る上できわめて重要な遺跡であり、中心部の約13ヘクタールが国史跡に指定されています。史跡全体を含む京大農場跡地一帯は、安満遺跡公園として、令和3年3月27日に全面開園しました。」

弥生時代前期から後期とあるので、これは紀元前3世紀から、紀元3世紀くらいまでとだいぶ長い。
「遺跡北西部で宅地造成計画。発掘調査により方形周溝墓を西日本で初めて確認
範囲確認調査により、遺跡範囲は東西1.5km×南北0.6kmと推定」
「農場北側で宅地造成計画。調査で2条の環濠を確認し、弥生時代前期の農具等が多数出土
市民、行政、市議会一体となって遺跡保存の気運高まり、当該地を買収して保存が図られる」
「このころまでに高垣町地内の調査を重ね、方形周溝墓群は合計100基を超える」

「三島地方ではじめて米作りを行ったのは、安満の集落です。この遺跡は住居群のまわりに濠をめぐらす環濠集落跡で、南側には用水路をそなえた水田がひろがり、東側と西側は墓地になっていました。全体では東西1500m、南北600mに及び、当時の土地利用が明らかになっている貴重な遺跡です。
多数の弥生土器とともに、青銅製のヤジリや木製の農具、珍しい漆塗りのカンザシやクシ、勾玉などの装身具などもみつかっています。

うーん、素直に弥生時代のムラのようです。皇室とはあまり関係なく、普通に朝鮮半島から渡来した弥生人のように思われます。
出土品は石器も多く、プレ皇室のような金属や宝飾品、鏡などがないです。
関係なさそうです。ちょっとだけ青銅製鏃が出ていますが・・・首長の大きいお墓のレベルではないのかも?

あとはどこかなあ???
わかったら、また調べます。


この人、9900か所もいっていて、すごい!!


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