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鵞樹丸『わらじ片っぽ』(1976)

『週刊文春』の連載「黄金の日本映画」で映画紹介をやっている。ここでは毎回「雑誌の発売日の後に映画館で観られる往年の日本映画」という条件のもと作品を選定し、原稿を書くことになっている。たまに最近の作品も取り上げるが、基本的には昔の日本映画がほとんどだ。結構選ぶのが難しい。なぜかというと昔の映画をかける名画座はどんどん潰れていって、選択肢もかぎられているからだ。ここではあまり有名な映画は選べない。「傑作発見!」と謳っていることもあり、多くの人が観ているだろう名作を選んだときNGが出てしまった。かといってマニアックすぎる映画ばかり選んでもダメなので塩梅がなかなか難しいのだ。これまで4年間弱やって60回ほどコラムを書いてきたが、一番貴重だったのは増村保造の『偽大学生』(1960)だっただろうか。だが、それを上回るかもしれない作品をプレス試写で観せていただいたので、かなりマイナーではるが、ぜひ取り上げたいと思って今回書いた。その作品が鵞樹丸(本名・村上靖子)の『わらじ片っぽ』(1976)という映画だ。

彼女は自主製作で映画を作りながら1973年に「コパン・ガジュマル」という自主映画プロダクションを立ち上げる。1993年に本名名義で、初めての長編劇映画『きこぱたとん』を監督していて、こちらの作品で知っている人が多いはずだ。いま国立映画アーカイブで「日本の女性映画人(2)——1970-1980年代」という素晴らしい特集上映が開催されている。2020年に村上靖子本人から国立映画アーカイブにフィルムの寄贈があり、新しくデジタル素材として蘇って、このたび上映されることになった。この映画はほとんど知られていなかったので、間違いなく特集では目玉作品となるはずだ。そして女性の映画作家の歴史において非常に重要な位置を占めることになるだろう(最近、共著で『彼女たちのまなざし——日本映画の女性作家』を出版したが、村上靖子という名前は聞いたことがあったものの、この作品に関してはまったく知らなかった)。

『わらじ片っぽ』は鎌倉時代の「歩き巫女」たちが放浪する姿と、現代の多摩ニュータウンの主婦を交錯させ、女性たちの抑圧、自由と解放をテーマに実験的に描いた自主映画である。グループ現代で記録映画の演出助手を務めていたので、撮影機材はスクーピック(16mmフィルムカメラ)を借りることができ、友人に協力をあおいで自分達で作ったという。ほとんどロケーション撮影で、台詞はない。だが、過去/現在、事実/虚構のモンタージュに即興で打楽器や笛がつけられ、狂騒する音と女性身体が画面に活力を与える。音楽は映像を映し出しながら即興でつけた。ドキュメンタリーの手法も織り交ぜられ、奥行きを使って歩行するシーンは頻繁にジャンプカットで処理されていく。映像と音楽の実験的な融合、時代を超えて共鳴する女性の身体。手作りの自主映画にしてこのスケール感、作者の想像力に驚かされる。

1970年代といえば、ヌーヴェル・ヴァーグを経て、ちょうど寺山修司が劇映画と実験映画を次々に作っていた頃だ。作家性の強い実験的な作品を多く作ったATG映画やアングラ演劇も盛り上がっていた時期。一方で、第二波フェミニズムの勢いもあり、ジェンダーの問題にも関心が向いていた。そんな時代の空気のなかでこうした実験的なフェミニズム映画が自主製作で作られていたことはとても感慨深い。監督はプレス試写のあと、映画製作のきっかけとして「女のひがみというか、当時、女はやられっぱなしという気持ちがあった」と語った。まだ映画では、男性が見る主体であり、女性は客体化された非対称な関係性が濃密だった。『わらじ片っぽ』は、そのような時代にあって、女性を主体とする紛れもない「女性映画」を自らの手で撮った。このことは深く映画史に刻まれるべきだろう。上映は3月8日(金)13:00〜、3月17日(日)15:30〜、3月24日(日)13:00〜の3日間。ぜひこの機会を逃さぬよう劇場へ行ってほしい。

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