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掌編小説「カフェの二階」

 古い引き戸を開けて一歩足を踏み入れると、どこか懐かしいにおいがした。そのまま玄関口でぼんやりたたずんでいると、
「――ごめんなさいね、今、満席で」
 ものやわらかな声をかけられた。入ってすぐが二畳ほどの取次(とりつぎ)の間、その向こうに板敷きのカフェスペースが広がっている。床はよく磨かれて深い飴色に光っていた。四人がけのテーブルが二つと、カウンターは五席。確かにどの席もお客でいっぱいだ。
 カウンターの向こうの厨房で、店主らしき女性が微笑んでいる。
「もし良かったら、二階へ上がって待ってらしてくださいな」
 言われて、その視線の動く先を見やると、取次のすぐ脇から階段が上へ伸びている。ひどく暗く、途中からは段差も見分けられないほどだ。
 私が少し躊躇していると、店主はエプロンで手を拭きながら出てきて、壁のスイッチを押した。階段の中ほどにある古い笠付きの豆電球にほのかな光が灯り、暗がりが少し壊れた。
「上に座るところがあるから、どうぞ。お席が空いたら声をかけますので」
 店主は四十代くらいだろうか。微笑むと細い目がさらに細くなって、目元にしわが浮かぶ。
 優しい声で「さあどうぞ」と重ねて促され、ここで辞退するのも気が引けるので、三和土(たたき)にスニーカーを脱いで上がった。
 お客たちはちらっと私のほうを見たようだったが、すぐに談笑を再開する。店主も忙しそうに厨房へ戻った。どうやら一人で切り盛りしているらしい。
 ぎし、ぎし。きしむ階段を慎重に上がっていく。
 結構流行(はや)っているお店なんだな、と少し意外に思う。
 本当は、別のカフェに行くつもりだった。事前にネットで「**観光オススメ・ぜひ行きたい人気カフェランキング」というサイトをチェックして決めていた、パンケーキと和紅茶が売りのお店。
 ところが、どうしてもそのお店が見つからない。この街特有の狭い坂道を行ったり来たりしていたら、通りがかったおじさんが声をかけてくれた。
 事情を説明すると、「ああ、あの店ね」と気の毒そうな顔になった。改装のために臨時休業中だという。
「わかりにくい場所にあるから、いつもは看板がそこに立っているんだけどね」
 と、私が何度もうろうろ歩いた坂道の一角を指差した。
「休業中だから、その看板も引っ込めちゃったんだな。お休みです、と書いといてくれたらいいのにねえ」
 春の行楽シーズンに休業とは……落胆する私に、おじさんが「せっかく来たんだから、代わりにどうかな」と教えてくれたのがこのカフェである。古い民家を改造したお店、と聞き、心が動いた。山手のほうにあって少し遠いから時間がかかるかも、と言われたが、どうせ帰りの列車も決めていない気楽な一人旅だ。行ってみます、と言うと、おじさんは簡単な地図を手帳に描いてくれた。それからまた十五分ほど坂道をさまよい、ようやくたどりついた。
 家の周りは竹林で、生け垣をめぐらしてあって、小さな冠木門(かぶきもん)があって……とおじさんの教えてくれた通りだったけれど、外にはお店の看板も何も見当たらない。門柱に少し大きめの表札、といった体(てい)の板が釘で打ち付けてあって、「あいています」と書かれているだけだ。ともかく営業中なのだろう、と思い切って入ってみた次第。
 外からは物音も聞こえず、人が大勢いる気配もなかったのに、満席でさらに待たされることになるとは。まあ、しかたない。せっかくここまで来たからには、お茶の一杯でも飲んで帰りたい。
 階段を上りきると、夕方の光が斜めに差し込んできた。四畳ほどの控えの間に、八畳の床の間付きの座敷。色褪せた畳はやわらかく、足が軽く沈み込む。
 座敷はがらんとして、何もない。床の間の前に、これも色の薄くなった朱色の座布団が、ぽつんと一枚きり敷かれていた。
 確かに「座るところ」はあるけれど、と苦笑しながら腰を下ろす。お客を通すからには、ある程度手が入れてあるのかと思ったけれど、綺麗にリノベーションされていた階下と違って、二階は昔のままのようだ。
 古い畳に手を這わすと、い草の感触がやわらかく肌に馴染んだ。窓にはカーテンもかかっていない。竹林が広がっているのが見える。その隙間から、薄曇りの空と家々の屋根がのぞく。立ち上がれば、その向こうには海が見えるはずだけれど、足の疲れを急に感じて、その気になれなかった。
 この座敷にも、懐かしいにおいがこもっている。昔、遊びに行った親戚の家だったか、幼な友達の家だったか……さらさらと揺れる竹の葉ずれの音を聞きながら、過去に思いを巡らせていると、ゆっくりと眠気がやってきた。
 帰りたくないなあ……とつぶやいた。夢の中で。
 誰だかわからないけれど、目の前にいる相手が、そうなの、と優しくうなずいてくれた。それで勢いづいて、なぜ帰りたくないのかをつらつらと述べ立てていた。
 だってね……お仕事は面白くないし、彼氏にはふられちゃうし。しかもその理由というのが、私の同期の友達と付き合い始めたからで……あの子のこと、私はすごくいい友達だと思ってた。だから彼氏にも紹介したのに。それが、いつのまにか。
 この街にも、本当は彼女と一緒に来るつもりだったの。二人でネットを見て、このパンケーキおいしそう、このお店絶対行こうね、なんて話してた。もちろん彼氏を取られる前の話。旅行は約束通り、一緒に行こうよ。そんなこと言われたけれど、無理に決まってる。
 断ったら、あの子、ひどく傷ついた顔をして。友達であることには変わりないと思ってた、なんて……何、それ。まるで私のほうが悪者みたい。本当にひどい話。よくある話なんだろうとは思うよ。でも私にとっては、唯一無二のひどい話だから。
 腹が立ってしかたなくて、何の予定もない日曜、一人でふらっと来てしまった。ここはいい街だな、と思う。いろいろ見て歩いている間は、二人のこと、思い出さずにすんだ。本当にもう、あの二人には二度と会いたくない……ううん、誰の顔も見たくない。帰りたくない、帰りたくないな……。
 はっと気付いた。
 いつのまにか、畳の上にうつぶせになって眠ってしまっていたようだ。
 ゆっくりと体を起こす。いったいどれぐらい眠っていたのか。
 スマホで時間を確認しようと思ったが、辺りが薄暗く、どこにあるのかわからない。かろうじて窓の外から差し込んでくる光の具合からすると、もう六時ぐらいではなかろうか。
 こんなに長い間放っておくなんて、どういうつもりだろう。下に行ってあのお姉さんに文句を言わなくては。
 とりあえず電灯をつけたいが、スイッチは……と立ち上がった時、どこかから視線を感じた。
 おそるおそるそちらに目をやる。床の間だ。目の高さくらいのところに、何か白いものが浮かび上がっている。薄闇の中で目をこらすと、白い狐のお面と知れた。
 こんなもの、さっきは無かった気がする。壁の中からふいと浮き出てきたかのようだ。不審に思いながらも、自然と体がそちらへ引き寄せられてしまい、手を伸ばす。
 壁から外してみると、ずっしりと重たい。お祭りの屋台で売っているようなプラスチックのものではなく、木彫りの、しっかりした作りのものだった。ぴんと尖った耳、墨と朱色の筆で描かれた目鼻。思ったより愛嬌があって可愛らしい。
 ふと、いたずら心が起きた。
 お面を自分の顔に当ててみる。冷たい木の感触が心地よい。大きさはぴったりだった。「こーん」と小さく鳴いてみた。
「こーん」
 耳元で、声がした。慌ててお面を外し、振り向く。
 店主の女性が目を細めて微笑みながら立っていた。いったい、いつ上がってきたのだろう。驚いて、とっさには口もきけない。
「びっくりさせてごめんなさい。すっかり遅くなってしまったけれど、やっとお席が空いたから」
 さあどうぞ、と先に立って階段のほうへ向かう。操られるようにそのあとに続きながら、何気なくもう一度、お面を顔に当ててみた。
 小さくくりぬかれた目の部分からのぞいてみる。すらりと背の高い店主の後ろ姿。そのお尻に、ふさふさした白い尻尾が揺れている。
 店主がくるりと振り向いた。
「ああ、やっぱり思った通り。それ、あなたによく似合う。そのままで下りていらっしゃいな」
 そう言う彼女の頭には、三角形の尖った耳が二つ、ぴんと立っている。いったいこれは、とお面を外そうとしたが、それはぴたりと私の顔に張り付いてしまっていた。もはや重さも感じない。
「とってもお似合い、可愛いわよ」
 彼女が重ねて言う。
 そうか、似合っているならまあいいか……そう諦めた途端にお尻がむずむずとして、私にも白い尻尾がふさっと生えたのがわかった。
 階下からは、楽しげな話し声が聞こえてくる。もしかしたらお仲間も、たくさんいるのかもしれない。

(了)

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