掌編小説「漕ぎ来るひと」
家の裏の雑木林を抜け、山の細道を駆け上がる。セーラー服のスカートが、藪から突き出た小枝に引っかかった。
「本当に、もう……」
文句を言いながらそれを外したところで、こらえていた涙が、ぽろりと一粒こぼれた。
ずっと我慢してきた。学校にいる間も、帰宅中も。家に帰って部屋に鞄を放り込んで、そのまま再び飛び出してきた。もういいよね、泣いても。
頬を伝う涙をそのままに、落ち葉の降り積もった道をさらに歩く。やがて木々が途切れ、視界が開けた。
湖は、空の青と周囲を取り巻く緑を吸い込んで、深い色をたたえていた。
そう広くもない湖だが、かつては釣り船でも浮かべることがあったのか、小さな古い桟橋がある。長いこと水に洗われて黒ずんだそれには、ところどころ穴も空き、初めての人なら足を乗せることをきっと躊躇してしまうだろう。だが私には馴染みの場所だ。
桟橋の突端まで急ぐと、体育座りをして膝に顔を埋めた。あふれ出て止まらない涙に、心ゆくまで溺れる。激しく嗚咽しても、ここなら誰かに聞かれることもない。
ここは秘密の泣き場所だった。初めて来たのは、小学校に上がった年の春。飼っていた犬が車にはねられ、死んでしまった。火葬にしてお骨を庭に埋めたあとも、悲しくてしかたなかった。犬と一緒によく遊んだ雑木林を泣きながら歩くうち、気付いたら、親に「入ってはいけない」と言われていた裏山に足を踏み入れていた。家に帰る気にもなれなかったので、行けるところまで行ってみよう、と登り、この湖に辿りついた。
以後も、一人で思う存分泣きたい時にはここへやってくる。高校に入ってからは、これが二回目だった。
少し無理をして入学した学校だった。幼なじみの親友と一緒の高校に行きたくて、受験勉強を頑張った。その甲斐あって無事合格できたけれど、入ってからが大変だった。
クラスは学力によって分けられていて、親友は特進コース、私は最下位のクラス。そのクラスにいてさえ、授業はよくわからないままどんどん進んでいってしまう。
今日の数学の授業で、前もって当てられていた問題の解答を黒板に書いていた。頑張って予習してきたから、これで大丈夫、と思っていた。だけど途中で先生に、
「その解法は違うな。こっちの公式でやってみて」
書きかけの解答を消されてしまった。示された公式を使ってやり直してみたが、どうしても上手くいかない。とうとう、チョークを持ったまま動けなくなってしまった。
「うん、もういいよ。席に着きなさい」
先生の声は優しかった。クラスメイトたちも、私を馬鹿にしたりからかったりする声を上げるでもなく、ただ静かに待っていた。でも、それが逆にこたえた。内心では皆、「なんでこんな子がうちの学校にいるんだ?」と思っているんじゃないだろうか。その後は一日中、ひたすらうつむいていた。
放課後、親友のクラスをのぞいてみたけれど、もう教室にいなかった。バスケ部の練習に行ってしまったのだ。少しでもいいから話せたら、と思ったのに……いや、もしまだ教室にいたとしても、暗い顔をした私を慰めるのに、あの子もうんざりしてしまっているだろう。会えなくて、かえって良かった。
私も中学の時は一緒にバスケをしていたけれど、高校では四月にあった体験入部期間だけで辞めてしまった。
校舎を出ると、体育館のほうからボールの弾む音と高い笑い声が響いてきた。それから逃げるように門を出て、あとはもう、一刻も早くこの場所へ来ることしか考えていなかった。
ぎい……ぎい……。
遠くから、かすかな音が聞こえてくる。一定のリズムで繰り返される、木と木が擦れ合ってきしむ音。
私は涙でぐしゃぐしゃになった顔を、ゆっくりと上げた。
湖の真ん中あたりに、一艘の小舟が見えた。舟の上に立って艪(ろ)を操る人影も。
――やっぱり来てくれた。
心の中にじんわりとあたたかさが広がる。
小舟を漕いでいるのは白い着物を身にまとった人で、体つきからして女性だろうと思われるが、顔は見えない。時代劇に出てくるような菅(すげ)の笠を深くかぶっている。
ぎい……ぎい……。
艪の音がだんだん大きくなる。互いの声が届きそうなあたりまで近づくと、舟はその動きを止めた。
ぱしゃん、と波立った水が舷(ふなばた)をたたき、桟橋の先にいる私の足元を濡らす。
「また、来てくれたんだね」
涙を手でぬぐいながら立ち上がり、声をかけた。
舟の上にいる人からは、返事はない。ただ、笠の下に少しだけのぞいているあごの先が、かすかに動いた。うなずいてくれたらしい。肩の下まで伸びた髪が揺れるのも見えた。以前はあんな風ではなかった気がする。
「髪、伸びた? 私もだよ。バスケ辞めてから半年で、こんなに伸びちゃった」
前にここへ来たのは、二週間の体験入部期間が終わった日のことだ。インターハイ出場経験もあるバスケ部の練習はハードだった。とてもこれでは勉強と両立できない、と入部をあきらめることを親友に告げると、彼女は残念がってくれた。だが、最後に付け加えられた「思ったより根性ないんだねー」という一言が、心に突き刺さった。勉強もバスケも難なくこなしてしまう彼女には、私の気持ちなんてわからないのだろう。
「勉強、本当に忙しくって。美容院に全然行けてない」
髪に手をやって、笑いかける。向こうも、艪を片手で支え、もう片方の手で自分の髪に触れた。笠の下では同じように笑ってくれているのかもしれない。
初めてここへ来た時から、こんな風だった。死んでしまった犬を思いながら泣いていると、気付いたら小舟が湖に浮かんでいた。
白装束に笠をかぶった舟の上の人も、その時から同じ。違うのは、最初は相手も私と同じくらいの背丈だったこと。それからも出会うたびに、こちらと歩調を合わせるように相手も成長している。
舟がどこからやってくるのかは、皆目わからない。対岸まですべて見通せるくらいの狭い湖で、ほかに桟橋や船着き場は見当たらない。なのに、我を忘れて泣いていると、艪を漕ぐ音が響いてきて、気付いたらそこまで来ている。
以前に一度、泣くためでなく来た時に、いったいあの舟はどこからやってくるのか確かめようとしたこともあるが、その時はいくら待っても現れなかった。湖の周りには草木が生い茂って道もなく、対岸へ行って調べることもできない。
どうやらあの舟は、私が悲しくてたまらない時にだけ、そばへ来てくれるらしい。そう納得し、以後は泣きたい時にしか来ていない。
何があったのか、なぜ泣いているのか、言葉にしなくても相手はすべて理解してくれている気がした。また、相手は一言も発しないのに、私の心に優しく寄り添おうとしているのがひしひしと感じられた。幼稚園の頃からずっと一緒にいた親友にさえ、こんな感覚は抱いたことがない。
だから、最初に一言二言しゃべったあとは、私も口をつぐむ。ただ黙って、水を隔てて向かい合う。ただそれだけで、心が湖面と同じように凪いでゆき、満たされていく。
やがて、太陽が西に傾き始めた。そろそろ帰らなくてはならない。家からさほどの距離はないとはいえ、灯り一つない山道は、暗くなってからでは大変だ。
「……そろそろ、行かなくちゃ」
そう告げると、小舟の人もかすかに笠を傾け、うなずく仕草を見せる。
帰らなくては、と思うのだが、どうしても足が動かない。家に帰ったら、今日できなかったところの復習。明日の予習。明日も明後日も、それの繰り返し。
――帰りたく、ない。
心の中で呟いた。その言葉は相手に届いたようだった。
ぎい……ぎい……。
艪が動く。いつもなら私が帰ろうとすると、反転して引き返していく小舟が、こちらへ近づいてくる。舳先(へさき)が、とん、と桟橋の柱に軽く触れた。
舟がこんなに近づいてきたのは、初めてだ。船尾に立つ人と私の間は、もう二メートルほどしか離れていない。
その顔は、相変わらず笠の影になって下半分しか見えない。だが、その唇がゆっくりと開くのが見て取れた。
――こちらへ、来る?
声にならない声でそう問うてきたのが、私には伝わった。
こちらへ。
小舟に乗って、この人の帰るところへ、一緒に――。
足元を見る。桟橋から一歩踏み出せば、そこはもう舟の上だ。
そうっと右足を、舟に下ろした。左足はまだ桟橋の上。
私の重みで、舟が傾く。ぱちゃん、と水音。
本当に乗っても大丈夫かな、と小舟の人へ目をやった瞬間、うなじの毛が逆立った。
舟が傾いたはずみで、笠が少し後ろにずれたらしい。顔が、あらわになっていた。
その人は、私と同じ顔をしていた。目も鼻も口も、耳の形も髪型も――鏡に映したように、そっくりそのまま。
違うのは、おそらく今の私の目は泣きはらして真っ赤になっているはずだけど、その人の目は湖面と同じように静かで澄み切っていることだけ。
反射的に足を引っ込めていた。同時に舟も動き、すうっと桟橋を離れる。
笠はまた、その人の顔を覆い隠していた。
ぎい……ぎい……。
艪が動き始める。小舟は向きを変え、帰ろうとしていた。いずことも知れぬ場所へと。
「……さよう、なら」
立ちすくむ私の口からふと転がり落ちたのは、そんな言葉。
舟はもうすっかり反対側を向いてしまっていたが、小舟の人は振り向き、うなずいてくれた。
――さよう、なら。
きっと、笠の下でそう言っていたのだろう。私とそっくり同じ顔と、同じ声で。
湖面が夕焼けの色に染まる。舟の上の人の白装束も同じ色。
見やると、対岸の林は影絵のように暗くなっていた。
ぎい……ぎい……ぎい……。
遠ざかりゆく小舟も、やがて一つの影となってゆく。それが闇に溶けて見えなくなるまで、私は帰り道の心配も忘れて、桟橋の上にたたずんでいた。
(了)
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