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掌編小説「五月の旅路」

 学校の裏庭にある池に、幽霊が出るという。五月の黄昏時にだけ、池のほとりに姿を見せる、と。
 そんな噂が校内でささやかれていた。真偽を確かめてみようと、とある放課後、私は裏庭に向かった。

 創立百年を超えた、中高一貫の女子校である。ほとんどの建物は近年に建て替えられているけれど、敷地のそこかしこに古い歴史が淀んでいるのがふとした拍子に目に付く。
 たとえば裏庭へと続く、校舎と校舎の間のこの細い道。簡素な石畳が敷かれているが、そこはかとなく苔むして、いったい幾人の少女たちがこの上を辿っていったのだろうか、などとふと思ってしまう。
 小道を抜けると煉瓦造りの花壇と小さな畑があり、これは園芸部の所管のはずだが、部員数の少なさのためか別所にある温室ばかりが賑やかで、こちらはもうずっと放置されている。錆びたスコップと如雨露の転がる横を通り抜けると、その先が問題の池である。
 池にはかきつばたの花が今を盛りと咲いていた。すっくと伸びた丈の高い緑の葉と、明るい青紫の花が夕陽に照らされて美しい。
 さほどの大きさでもない池の向こう岸は暗い林になっている。林のどこかに学校の敷地と隣地とを区切る柵があるはずだが、ここからは見えない。
 池のほとりには、誰もいない。幽霊なんて、どこにもいやしない。
 これは安堵なのか、それとも落胆か。所在ない気持ちでその場にたたずんでいた。
 表側のグラウンドから、たぶんソフトボール部だろう、元気の良い掛け声が響いてくる。
「――あら、どうしたの」
 背後から、ふいに声をかけられた。聞き覚えのある声だ。おそるおそる振り向く。
 清水先生が、微笑んでいた。中等部の国語を担当している女性教諭だ。つややかな髪が風に揺れて、白いブラウスの肩先で踊った。
「こんなところで何しているの? 高坂さん」
 何をしているのかと問うてはくるが、咎める調子ではなく、優しく名を呼んでくれる。
「はい、高坂です。三年二組の、高坂です。わ、わかりますか?」
 思わず勢い込んで言うと、先生はおかしそうに声を立てて笑った。
「ご丁寧にありがとう。大丈夫、ちゃんとわかりますよ。三年二組、後ろから二番目の窓際の席の、高坂まどかさん」
 顔から火が出そうになる。だが嬉しい。先生の目に、私はちゃんと映っていた。
「す……すみません。名前覚えていただけてないかも、と思って」
 私のほうでは入学当初に清水先生を見かけて以来、校内で行き会えばいつも目で追いかけていたけれど、授業を受け持ってもらったのは三年になってからが初めてだ。
「私、目立たないですし……」
 口ごもりながら言い訳していると、先生は「目立たないなんて、そんな」と首を振る。
「高坂さん、いつも国語、頑張っているじゃない。四月に書いてくれた作文も、目の付け所が良くて面白かったなあ」
 ありがとうございます、と口の中でつぶやく私の隣に先生はやってきて、かきつばたを見やる。「綺麗ね」と言うのに、「はい」とこれは大きな声で返すことができた。
 先生は片手に黒いバケツを提げていた。中には、花剪りばさみが入っている。
「お花を剪りにいらしたんですか?」
「そう、明日からの古文の授業にね、教室に持って行って見てもらおうかな、と思って」
「東(あずま)下りですね、伊勢物語の」
「さすが高坂さん、もう予習してるのね」
「ちょっと教科書を読んだだけですけど……」
 教科書に載っていたのは『伊勢物語』第九段の抜粋だ。我が身を役に立たない者と思った男が都を去り、友と一緒に東の国へ下っていく。その途上、かきつばたの咲く沢のほとりで和歌を詠む。
「わかるなぁ。私も国語大好きだったから、教科書を配られたらすぐに全部読んじゃってた。でも国語を好きな生徒ばかりじゃないものね、特に古文は苦手意識を持っている子も多いし。本物のお花でも見てもらったら、興味を持ってもらえるかな、と」
「かきつばたといふ五文字(いつもじ)を句の上(かみ)に据ゑて、旅の心を詠め――」
 私が教科書の一節を小さくつぶやくと、先生は嬉しそうに後を続けた。
「――唐衣(からころも)きつつなれにしつましあればはるばる来ぬる旅をしぞ思ふ」
 都に置いてきた妻を思い、はるばると遠くまでやってきたものだ、という感慨を詠った和歌。
 池の上を、さあっと風が吹き渡る。かきつばたの花もわずかに揺れた。
「さて、そろそろ戻りましょうか」
 先生がこちらを向いて、促す。
「いいんですか、お花は」
「綺麗に咲いているのを見たら、剪るのが申し訳なくなっちゃった。代わりに授業の時に少し時間を取って、ここへ来てお花を見るのはどうかな、と思って。そのほうが旅の途中の主人公の気持ちに近づける気がしない?」
「旅、ですか」
「教室からここまでだから、ほんの短い旅だけどね」
 いたずらっぽく笑い、「あ、ほかのみんなには内緒にしておいてね」と先生は付け足す。
「暗くなっちゃうから、高坂さんもそろそろ帰りましょうね。お花を見ていたの?」
 あらためて問われ、私は視線をかきつばたのほうに泳がせながら、ためらう。
「あの……実は」
 幽霊の噂を聞いて、と言ってしまっていいものか。隣に目をやると、やわらかい眼差しで私を見つめてくれていた。頬が熱くなった。
 その時。
「――先生!」
 背後で、明るく澄んだ声が弾けた。
 振り向くと、二人の生徒が手を振りながら駆けてくる。
「高坂先生!」
 私の名を呼んで、飛びついてくる。
「こんなところで、一人で何やってるんですか? 本日の文芸部、活動終わりました!」
「部室の戸締まりチェック、お願いしまーす。ていうか先生、もうちょっと顔出してくださいよぉ、部員少なくってさびしいんですから」
 口々に賑やかにしゃべりながら、二人は私の両腕にまとわりつく。
 清水先生は――と目をさまよわせるが、もう、どこにもいない。
 池も、ただ暗く淀んでいて、かきつばたの花など一輪も見えない。
 ばかりか、池の手前に高い金属製の柵が立てられている。私も――先ほどまで清水先生の目に映っていたであろう中学生の時の姿ではない。教師になって一年目の、今年、二十三歳。
「先生、だめですよ、こんな物騒なところでぼやっとしていたら」
「そうそう、先生はうちに来たのこの四月だから、知らないでしょ? ここって昔、すっごく怖い事件があったんですよ! 五月になると、その事件の犠牲者の霊が出るって有名なんですから」
「さ、戻りましょ。ほんと、高坂先生ってば何か夢見がちっていうか、ほっとけないタイプですよねー」
 まるで頼りない転校生の世話でも焼いているかのように、好き勝手言っている。私は苦笑しつつも、ぐいぐいと両腕を引っ張る二人の手のあたたかさに心が和んだ。
 事件のことは、もちろん知っている。あれは私が中等部三年の時に起きたのだ。
 裏山から不審者が侵入してきて、この池のほとりで女性教諭に見咎められた。もみ合いになり、ナイフで刺した。犯人は数日後に自首。部活動を終えて着替える生徒をのぞき見しようとしていたらしい。ナイフはいざという時に脅しに使おうと持っていただけで、誰かを傷つけるつもりなどなかった、と供述したそうだ。
 それは嘘ではなかったかもしれない。だがそのナイフは、清水先生の胸に突き刺さったナイフは、彼女の命を奪った。倒れたはずみで先生は池に落ちた。翌朝見つかった時には、かきつばたの花の根元に、ひっそりと抱かれるように浮かんでいた、という。

 あの日の放課後――日直だった私は、クラスで集めた課題を職員室の担任のもとへ持っていった。提出し終えて帰る時、ちょうど清水先生も職員室を出るところだった。
 ――お疲れ様、気をつけて帰ってね。
 声をかけられ、「はい」と返事はしたものの、それ以上は何も言えず。黒いバケツを提げて廊下を歩いていく先生の、すっきりと伸びた背中を見送ることしかできなかった。
 もしも、あの時――。
「先生、高坂先生ってば」
「私らの話、聞いてます?」
 二人の声に、現実に引き戻される。
「あ、ごめんなさい。何の話だった?」
「もうー、次の部誌の話ですよ。テーマは何がいいかなって」
「先生も案を出してくださいよー」
「うーん、そうだなぁ……」
 楽しそうな二人に相槌を打ちながら、思う。
 もしも、あの時。この子たちのように無邪気に、清水先生に話しかけていたら。どこへ行かれるんですか、一緒に行ってもいいですか、と先生についていっていたら。もしかしたら先生は、殺されずに済んだのでは――。
 先生のことが、好きだった。いつか二人きりで、いろいろ話してみたいと願っていた。あの時、職員室を出て一人で歩いていく先生を見て、これは良いチャンスじゃないかと思った。なのに、声をかけられなかった。
 事件後、私は親の都合で転校した。この場所から遠く離れた。自分の意志ではなかったけれど、まるで逃げるみたいだ、と思ったことを覚えている。だがそれからも、あの日の後悔は決して薄れることはなかった。
 そしてとうとう逃げるのをやめようと決め、今年の春、教師としてここに戻ってきた。けれど。
(――はるばる来ぬるたびをしぞ思ふ)
 時間は無情な旅路のようだ。戻ってきたけれど、もうそこは同じ場所ではない。池にはかきつばたの花もない。何度振り返っても、あの日には帰れない。
 校舎に向かいながら、最後にもう一度だけ、そっと背後を見やる。夕映えの中、池を取り巻く柵だけが光っている。先生の姿は、見えない。
 ――そろそろ帰りましょうね。
 優しい声が、耳によみがえる。先生は、長い旅路を終えて帰れたのだろうか。

(了)

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