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【掌編小説】お化けが出てくる話 #2000字のホラー

「二十年、待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」
 夏の暑い日、そう言い遺して妻は死んだ。病状が悪化して昏睡状態が続いていたのだが、ふと眼を開けて微笑していた。私が何とも答えられないうちに再び眼は閉じられ、もう開かなかった。
 まだ六十の手前で、随分早い死である。私のほうが年上だし男だし、先に死ぬものと決めてかかっていたので、やや裏切られた感があった。
 死んだら無になるだけだ。そうは思いつつも二十年後に逢いに来る、と言われれば、少し楽しみな気持ちになってしまう。しかしなぜ二十年なのか。折節考えてみたが、わからない。
 妻が死に、子もいない。独りになった。仕事があるのはありがたかった。製薬会社の技術職で、それなりに忙しい。しかしそれもやがて定年になる。時間を持て余し、妻の遺した本棚いっぱいの蔵書をひもとくようになって謎が解けた。
 夏目漱石の「夢十夜」という小説に、死に瀕した女が「百年待っていて下さい」と言う場面がある。「百年、私の墓の傍に坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」。
 成程、妻のあれはここからかと思ったが、百年を五分の一に縮めたのは文豪に遠慮したゆえか、生来の大雑把さのゆえか。なんとなく後者の気がした。微笑ましかった。

 妻は本が好きだった。初めてデートした日、待ち合わせた喫茶店で彼女は本をめくっていた。白いワンピースと文庫本にかけた赤いカバーとが鮮やかなコントラストで、声をかけずに見とれていた。
 向こうが顔を上げ、照れ隠しに慌てて「何を読んでいるの」と尋ねたら、「お化けが出てくる話」と真面目な顔をして答えた。
 実際、妻の本を読むようになって、そのすべてが「お化けが出てくる話」、いわゆる非現実的な物語であることに驚いた。
 お化け、つまりは死者の霊だけではない。妖怪が現れる。妖精も出てくる。天使や悪魔が踊る。異界へ足を踏み入れたり、反対に異界からの訪問者を迎えたりする。彼女は常々こうしたものを読みながら日々の暮らしを営んでいたのかと思うと――鼻歌を歌いながら肉じゃがをこしらえ、散らかった部屋に文句を言いつつ掃除機をかけ、ちょっと生乾きだけどまぁいいかと笑って洗濯物をたたんでいた、そういう日常の姿が、妙に不可思議なものとして思い起こされた。

 さて私も八十になり、頭はまだしっかりしているつもりだが足元が若干おぼつかなくなってきた。不自由が起きる前に高齢者向け住宅に住み替えることにした。
 今日、住み慣れた我が家を離れる。必要な物は先に送ってあり、あとはすべて業者に処分してもらう手筈だ。自分の手で捨てるのはつらい。
 妻の本棚も置いていく。最後の名残に「夢十夜」に手を伸ばした時、玄関のチャイムが鳴った。頼んでおいたタクシーが来るには早いが、と思いながら扉を開ける。
 残暑の、暴力的な陽射しに眼がくらんだ。視界が真っ白になり、刹那、その白さよりもなお白いワンピースの裾がひるがえる。
 だが瞬きをして眼を開けると、もう誰もいなかった。
「二十年はもう来ていたんだな」と呟いてみる。
 静寂を切り裂き、思い出したように蝉が鳴き始めた。

(了)


#2000字のホラー


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